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空想から科学へ
プリードリヒ・エンゲルス
Written: Between January and March of 1880;
Source: Marx/Engels Selected Works, Volume 3, p. 95-151;
Publisher: Progress Publishers, 1970;
First Published: March, April, and May issues of Revue Socialiste in 1880;
Translated: from the French by Edward Aveling in 1892 (authorised by Engels)
Transcription/Markup: Zodiac/Brian Baggins;
Online Version: Marx/Engels Internet Archive (marxists.org) 1993, 1999, 2003.
目次
1880年フランス語版への序文
1982年ドイツ語版への序文
1.空想的社会主義
2.弁証法
3.史的唯物論
現在フランス代議院のリールにおける代議士の私の友人であるポール・ラファルグからの依頼により,私はこの本の3章を小冊子として整え,彼は,「空想的社会主義と科学的社会主義」という表題で1880年に翻訳して出版した。このフランス語版より,ポーランド語版とスペイン語版が作成された。1883年に,我々のドイツの友人達はこの小冊子を元の言語で出版した。イタリア語,ロシア語,デンマーク語,オランダ語,ルーマニア語訳はドイツ語版より翻訳され出版された。こうして,今,この英語版により,この小さい本は10の言語で広まっている。私は,1848年の「共産党宣言」やマルクスの「資本論」でさえ,これほどしばしば翻訳されたほかの社会主義の文献を聞いたことがない。ドイツでは,この本は4つの版を合わせて約20,000部出版された。
[1982年の英語版への序文より]
1880年のフランス語版への序文(カール・マルクス)
この小冊子の主題をなすページは,社会主義レビューの3つの論文として出版されたが,エンゲルスの「(オイゲン・デューリング氏の)「科学の変革」」という最近の本から翻訳された。
フリードリヒ・エンゲルスは,今日の社会主義の最も主要な代表者の一人であるが,1844年に,始めはマルクスとルーゲによりパリで出版された独仏年誌に載った「政治経済学批判要綱」で有名になった。「要綱」は既に確かに科学的社会主義の一般原理を明確に述べている。エンゲルスは当時はマンチェスターに住んでいて,そこで「イギリスにおける労働者階級の状態」をドイツ語で1845年に書いたが,これはマルクスが「資本論」で十分公平に評価した重要な著書である。彼のイギリスでの最初の滞在期間に,彼はまた,後にはブリュッセルで行ったように,社会主義運動(チャーチスト)の公式の雑誌の「ノーザン・スター」に,そしてロバート・オーウェンの「ニュー・モラル・ワールド」に寄稿した。
ブリュッセルでの滞在中に,彼とマルクスは,フレミッシュとワルーンの労働者クラブとボルンシュタットのドイツーブリュッセル・ツァイトングにつながる,ドイツ人労働者の共産主義クラブを創立した。カール・シャッパーが1839年にブランキの陰謀に加担したのちにフランスから脱出したのちに創立した義人同盟という(ロンドン在住の)ドイツ人組織に招かれてこの組織に加入した。この時より同盟は秘密結社的性格を捨てて国際的な共産主義者同盟として改組された。とはいえ,当時の状況では政府の関係からは秘密にしておかねばならなかった。1847年にロンドンで行われたこの同盟の国際会議において,マルクスとエンゲルスは,「共産党宣言」を起草することを支持され,これは2月革命の直前に出版されすぐにほとんどすべてのヨーロッパの言語に翻訳された。
同じ年に彼らはブリュッセルで民主主義協会の創立に関与したが,これは急進的ブルジョアとプロレタリアの代表者からなる国際的・大衆的な組織であった。
2月革命の後で,エンゲルスは,1848年にマルクスによりケルンで創刊され1849年にプロイセンのクーデターにより禁止された,新ライン新聞の編集者の一人となった。エルバ―フェルトでの蜂起に参加した後,エンゲルスはバーデンでプロイセンとの戦闘(1849年6月,7月)に,射撃大体の大佐であったヴィリッヒの副官として戦った。
1850年にロンドンで,彼はマルクスによって変数されハンブルグで印刷された新ライン評論に寄稿した。エンゲルスはここでドイツ農民戦争を始めて出版したが,これは19年後にライプチヒで小冊子として再版され3版を重ねた。
ドイツでの社会主義運動の再開の後,エンゲルスはフォルクシュタットとフォルベルツに寄稿した。彼のもっとも重要な記事は,「ロシアの社会関係について,「ドイツ議事堂でのプロイセンのシュナップス酒」,「住宅問題」,「スペインにおけるカントナリストの勃興」などのように冊子の形で再版された。
1870年に,マンチェスターを去ってロンドンに行き,国際総評議会に加入し,スペイン・ポルトガル・イタリアとの連絡を委託された。
彼がフォルヴェルツに寄稿した記事の最新の連載は「ぢゅーリング氏の科学革命」(E,デューリング氏の科学一般と特に社会主義についての伝えられるところでは新理論に応えて)という皮肉な表題で一冊の本にまとめられドイツの社会種飛車の間で大いに成功した。この小冊子では我々はこの本の理論的な章から最も特徴的な賞を抜粋した。これは科学的社会主義への入門と呼ばれる構成になるだろう。
注1
1880年のフランス語版ではラファルグは次のように付け加えている。
1.ユートピア社会主義の発展
近代の社会主義は,その本質において,一方では今日の社会における持てる者と持たざるもの,資本家と賃労働者との対立の,他方では生産における無政府性を直接の認識である。しかし,その理論の形式では,近代の社会主義は表面上は18世紀のフランスの偉大な思想のより論理的な拡張として現れた。全ての新しい理論と同じく,近代社会主義は,始めは,それが物質的経済的事実に根差すにしても,手持ちの地敵的な在庫品と関連付ける必要があった。
フランスが来るべき革命のための知性として用意した偉大な人々は,彼ら自身非常に革命的であった。彼らはどんな外部的な権威も認めなかった。宗教,次善科学,社会,政治機構 ー 全ては容赦ない批判の対象であり,すげてはその存在理由を法廷で正当化するか,さもなければs存在することをあきらめねばならなかった。理性がすべてに対する唯一の尺度となった。それはヘーゲルが言うように,世界が頭で立った時代であった「1」始めはその意味は人類の頭,そしてその思考の原理が,全ての人類の行動と強力の基礎になることを意味したが,やがて,その原理に反する現実がひっくり返されるというより広い意味になった。既存のすげての社会と政治の形態,全ての古い伝統的な考えは不合理として物置部屋に投げ込まれた。世界は今まで単に偏見に従っていた。過去のすべてのものは憐れみと軽蔑の対報いを受ける。今,始めて,日の光が,理性の王国が現れた。これからは迷信や不正や特権や抑圧は,永遠の真理,永遠の正義,自然に基づく平等と人間の不可侵の権利にとってかわらねばならない。
今日我々は知っている,理性の王国はブルジョアジーの王国を理想化したものに他ならないことを。この永遠の正義はブルジョアの正義として実現された。この平等はブルジョアの方の前の平等へと切り詰められた。ブルジョア的所有は人間の本質的権利の1つと宣言された。ルソーの社会契約はブルジョアの民主共和国として実現された。18世紀の偉大な思想家は彼らの先行者と変わりなく,時代が彼らに与えた限界を超えることはできなかった。
しかし,封建貴族と社会の残り全ての代表を主張する中産階級の市民の対立と並んで,搾取者と被搾取者,裕福な怠け者と貧乏な労働者の対立が存在した。これがブルジョアジーの代表者が1つの特定の階級のみならず苦しむ人々すべての代表として前面に出ることを可能にした事情であった。さらに,始めからブルジョアジーはその対立物を抱えていた。資本家は賃労働者なしには存在できないし,そしてギルドの中世の中産階級のが近代的ブルジョアに発達するのと同じ割合で,ギルドの職人とギルド外の日雇い労働者はプロレタリアへと発展した。そして,全体として,ブルジョアジーは,貴族との闘争の間にその時期の自分たちとは異なる労働者階級の利益を同時に代表していると主張することができたんもかかわらず,全ての偉大なブルジョアの運動では近代プロレタリアートの階級の先進的で多かれ少なかれ発達した独立した突出があった。例えば,ドイツの宗教改革と農民戦争の時代には,再洗礼派とトーマス点ミュンツァー,イギリスの大革命では平等派,フランス大革命ではバブーフ。
これらはいまだ未発達の階級の革命的反乱に対応する理論的宣言だった。16世紀と17世紀は理想社会の状態のユートピア的な描写,18世紀には実際んお共産主義理論(モレリーとマブリー)[2]。平等の要求はもはや政治的権利にとどまらず個人の社会的な状態にも拡張された。それは単に廃止されるべき階級的特権のみならず,階級の区別そのものにも及んだ。共産主義は,禁欲的な,人生のすべての楽しみを否定するスパルタ式がその新しい教えの最初の形態であった。ここに3人の偉大なユートピア主義者が現れた。サン―シモンにおいてはプロレタリアと並んで中産階級の運動がなおも重きをなしていた。フーリエとオーウェンにおいては,資本家の生産がもっとも発達した国で,これによる対立の影響のもとで,階級の区別の体系的な撤廃の提案をフランス唯物論との直接な関係の下で案出した。
1つの事柄が3人に共通する。彼らの一人として,その間に歴史的な発展を遂げたプロレタリアの利益の代表者として現れたのではなかった。フランスの思想家と同じく,彼らは特定の階級の解放ではなく全人類を一度に解放することを主張した。彼らも同じく理性と永遠の正義の王国をもたらすことを望んだ。しかしその王国は,フランスの思想家のものとは天と地ほど離れたものと彼らは考えた。
3人の社会改革者にとって,これらの思想の原理に基づいたブルジョアの世界は,きわめて不合理で不正なものであり,それ上封建社会や全ての社会の早い段階と同じぐらいゴミ箱へと投げ込まれるものであった。もし真の理性と正義がこれまでに世界を支配していないのなら,それは人々が正しく彼らを理解していないというだけの問題だった。待ち望まれたのは今現れて真実を理解する天才的な個人だった。彼が今現れ,真実が今明確に理解されることは,歴史的な発展の連鎖における必然性に依存する避けられない出来事ではなく,単に幸運な偶然である。彼は500年前に生まれることもできたし,その時は人類の誤りと紛争と苦しみの500年を節約することができた。
我々は18世紀のフランスの思想家,革命の先駆者がいかに全ての判断基準として理性に訴えたかを見た。理性的な政府,理性的な社会が設立されるはずだった。永遠の理性に反する全てのものは無慈悲に取り除かれるはずだった。我々はこの永遠の理性は実際にはちょうどその時ブルジョアへとしんっ化した18世紀の市民の理想化された理解にすぎないことも見てきた。フランス大革命はこの合理的な社会と政府を実現した。
しかし物事の新しい秩序は,より古い状態と比べて十分合理的であるが,決して絶対的に合理的ではないことが分かった。理性の王国は完全に崩壊した。ルソーの契約社会はテロの支配の中に設立され,彼ら自身の政治的能力に自信を失ったブルジョアジーは始めは筝曲の腐敗の中に,最後にはナポレオンの先制の中に逃げ込んだ。約束された永遠の平和は終わりのない征服戦争に転じた。理性にもどつく社会は同じような目にあった。金持ちと貧乏人の対立は,一般的な繁栄の中で解消する代わりに,ある程度その架け橋となっていたギルドやそのほかの特権の廃止によって,そして教会の慈善施設の廃止によって,一層激化した。封建的な足枷からの「財産の自由」は,今日本当に達成されたが,超資本家や小所有者にとって,大資本家や地主といった大王との競争で圧倒され破壊された彼らの少ない財産を売却する自由に転化した。このようにして,小資本家や小農に関しては,「財産からの自由」となった。資本市議を基礎とする三号の発展は労働者大衆の社会的生活条件に貧困と不幸を作り出した。現金支払いがますます,カーライルの言葉によると[トーマス・カーライル「過去と現在」ロンドン1843年を参照]人と人との唯一の紐帯となった。犯罪の数は年々増えていった。封建的悪徳が白昼公然と闊歩していたが,それらは今,少なくとも背景へと押しやられた。その代わりに,ブルジョアの悪徳が,これまでは秘密に実行されたが,一層鮮やかに花開いた。商売はますます不正行為となった。革命の標語の「友愛」は競争のごまかし都構想の中に実現された。力による抑圧は買収で,剣は最初の社会的手段としての金貨で置き換えられた。初夜権は封建領主からブルジョア的製造者に移った。売春はかつて聞かないほど増加した。結婚自体は以前と同じく残った。売春の法的に承認された形,隠れ蓑として,そして無数の姦通が補足物であった。
一言でいえば思想家たちの華麗な薬草と比較し、「理性の勝利」として生まれた社会的政治的状態は、苦いがっかりさせる戯画であった。望まれたのはこの失望の高sh帰化であり、それは世紀の変わり目にやってきた。1802年にサン・シモンのジュネーブ人の手紙が、1898年にはフーリエの最初の著作だ出版された。彼の理論の土台は1799年のものである。1800年の一月一日にはロバートオーウェンはニューラナークの管理に取り掛かった。
この時には、しかしながら、資本的様式とプロレタリアートとの対立はいまだ十分に発展してはいなかった。イギリスで起こった近代工業はいまだフランスでは知られていなかった。しかし近代工業は、一方では、生産様式の革命を絶対的に必要とする紛争を発展させ、また資本主義的性格も廃止するーそれにより生じた階級対立のみならずそれにより作られた巨大な生産力と交換様式の間の対立によって。そして、他方では、それはこの巨人的な生産力を、その対立を終わらせる手段を発達させる、それゆえ、もし、新しい社会秩序から起こった1800年ごろに対立が起こったのなら単に形成の初期に過ぎず、それはそれを終わらせるためによりいっそうのものをおさえるひつようがあった。パリの無産者大衆は恐怖政治の間支配権を握りふぶじょあ革命をブルジョア自身の意に反してする勝利へと導いた。しかし、そうするためには、彼らは彼らの支配をその時点でえられた条件で永続させることがいかに不可能化を証明しただけであった。プロレタリアートは、この時初めて自らを何も持たない大衆からあたらしい階級の中核へと発展したが、いまだ独立した政治的行動は起こしえず、抑圧され苦しんでいてそれへのたすけもせいぜい外側から、あるいは上から下へともたらされたものであった。
この社会的条件もまた社会主義の創設者たちを支配した。資本主義的生産条件の粗野な状態には粗野な理論に対応した粗野な階級状態が現れた。社会的音大の解決策は未発達な経済条件の背後に隠されていて、空想主義者はそれを人間の頭から展開しようとした。社会は悪いものしかもたらさず、それを取り除くのは理性の仕事だった。」新しいより完全な社会秩序を発見し、宣伝抜きにどこでも可能なところでモデルの実験の例として社会に課すことが必要だった。彼らの努力が完全になればなるほど彼らは純粋な幻想へと陥らざるを得なかった。
このことが我々に分かったのなら、我々は今や完全に過去に属する問題に拘泥する必要はない。われわれはこれらの幻想の上の文学的たわごとや厳かな屁理屈からは離れよう。それは今日われわれを微笑ませるだけであるし、彼ら自身の生の理性がその狂気と比較して優れていることを喜ぶだけである。我々自身にとって、我々は驚くほどに壮大な思想と幻想的な覆いを通して何時も現れる、俗物たちが気付かない偉大な思想に喚起するだけである。
サンーシモンはフランス大革命の子であった。それが起こった時、彼はまだ30歳になっていなかった。革命は第三身分の勝利で終わったーすなわち国民の大修整さんと交易の労働者の特権を負った怠け者の階級に対する、貴族や僧侶に対する勝利だった、しかし第三身分の勝利はまもなくこの階級の小さな割合、社会的特権によって政治的に支配するようになった階級の勝利であることが明らかになった。すなわち、財産を持つブルジョアジーである。そしてブルジョアジーは大革命の間速やかにある発展を遂げた。部分的には尊い教会の地の登記所において、告白し結局は商品を出品し、軍隊と契約する手段による詐欺をも使う。これは総統政府のもとでフランスに廃墟をもたらしたのはこれらの詐欺の支配でありナポレオンにクーデターの口実を与えた。
それゆえ、サンシモンにとっては第三身分と特権階級の間の対立は、「働くもの」と「怠け者」の形をとった。怠け者は単なる古い特権階級のみならず、生産や流通になんら寄与せずとも収入があっていき程普物のことでもあった。そして労働者とは賃労働者のみならず製造業者や商人や銀行家も含む。怠け者たちは知的リーダーシップや政治的支配権を失ったことが革命が落ち着いた時までに証明された。無産階級がこの能力を持たないことは恐怖政治の経験より証明されたとサンシモンには思えた。では誰が色紙命令するのか?サンシモンによれば科学と産業であり、ともにあたらしい宗教の絆で結ばれ、宗教改革の時以来失われた宗教的観念の統一を取り戻す運命にある。必然的に神秘主義的かつ厳格な階層制的「新キリスト教」として。しかし科学とは学者のことであり、産業とは初めには働くブルジョア、製造業者、商人、銀行家のことである。これらのブルジョアは、必ずサンシモンによって一種の公務員、社会的受託者へと自らを変えことを予定される。しかし彼らはなおも労働者に向かっては指揮権のある経済的に特権のある位置にいる。銀行家は特に社会の全生産物を信用の調節により管理することを要請される。この概念は近代工業がフランスに現れそれとともにブルジョアジー地プロレタリアートが出現したちょうどその時に現れた。しかしサンシモンが特に強調したのは、彼が最初に、ほかのことを差し置いて関心を持つのは最も数が多く最も貧しい階級の人たちである。(「最大かつ最も貧しい階級」)。
すでにジェノバの手紙において、サンシモンは「全ての人は働くべき」との提案を行っていた。同じ本の中で彼は恐怖政治は無産大衆の政治と認識してもいた。
「見よ」と彼は彼らに言う。「君たちの仲間がそこで支配していた時、フランスでそのとき何が起こったか。彼らは飢饉をもたらしたのだ。」[ジュネーブ在住者から同時代人への手紙 サンシモン 1803年]
しかしフランス大革命を階級戦争と認識すること、単に貴族とブルジョアジーの間だけではなく、貴族・ぶブルジョアジーと無産者の間のものと、1802年に発見したことは最も意味深長な発見だった。1816年に彼は政治は生産の科学で、政治は経済によって完全に吸収されることを予言した。経済条件は政治機構の土台であるという認識はここでは萌芽として表れている。また既に明白に表現されたのは物の管理と生産過程の方向への人々への政治的規則の将来における変更の考えであったーそれは、いわば、最近騒がしくなった「国家の廃止」であった。
サンシモンは1814年のパリが同盟に加入した直後に、また11815年の100日戦争の間、同じく同時代人に抜きんでていたから、彼はフランスとイギリスの同盟を、そしてさらにこれら両国のドイツとの同盟をヨーロッパの繁栄的な発展と平和のための唯一の保証と主張した。1815年にフランスに対しウォータールーの勝利者と同盟することを説得することは、歴史的先見性と同じぐらいの勇気を必要とした。
(以下は国民文庫版からのコピーです)
サン-シモンには天才的な視野の広さが見いだされ、この視野の広さのおかげで彼の思想には、厳密に経済的な思想ではなかったけれども、後代の社会主義者たちのほとんどすべての思想が萌芽としてふくまれていたとすれば、フーリエにみられるのは、現存の社会状態にたいする、真にフランス人的な才気にみちた、それでいて洞察の深さにおいても劣らない批判である。フーリエは、ブルジョアジーの言質を、革命前の彼らの熱狂的な予言者たちと革命後の彼らの打算ずくのおべっかつかいたちとの言質を、とっている。彼はブルジョア世界の物質的・精神的なみじめさを容赦なくあばきだしている。彼は、理性だけが支配する社会だとか、すべての人を幸福にする文明だとか、無限に完成してゆく人間の能力だとかについての、以前の啓蒙思想家たちの魅惑的な約束や、同時代のブルジョア・イデオローグたちのはなやかな美辞麗句を、このみじめさとつきあわせる。彼は、おおげさな空文句のかげには、どこにでも、このうえなくみじめな現実があることを指摘し、これらの空文句のすくいようのない破綻に、しんらつな嘲笑をあびせかけている。フーリエは批判者であるだけではない。彼のいつもかわらぬ快活な性格によって、彼は諷刺家に、しかもあらゆる時代をつうじての最大の諷刺家のひとりになっている。彼は革命の退潮にともなってさかんになった詐欺的投機や、当時のフランスの商業にあまねく見られた小商人根性を、たくみにかつ嘲笑的にえがきだしている。それにもまして傑作なのは、両性関係のブルジョア的形態やブルジョア社会における女性の地位にたいする彼の批判である。ある社会における女性解放の程度は全般的解放の自然的尺度〔59〕である、とは彼がはじめて言明したところである。だがフーリエが最も偉大な姿で現われるのは、社会の歴史についての彼の見解においてである。彼はこれまでの歴史の全行程を、野蛮、家父長制、未開、文明という四つの発展段階に分けている。この最後のものは、今日のいわゆるブルジョア社会、すなわち一六世紀以来みちびきいれられた社会秩序と一致する。そして彼はこう指摘している。
「文明化された秩序は未開時代に単純な仕方でおこなわれたあらゆる悪業に、複雑な、うらおもてのある、あいまいな、偽善的な存在の仕方をとらせる。」
文明は一つの「悪循環」のなかで、自分でたえず新しく生みだしながら克服することのできない諸矛盾のなかで動いているので、その結果、つねに文明は、それが達成しようとしているもの、または獲得したがっているかのように見せかけているものとは反対のことを達成する〔60〕。したがって、たとえば、
「文明時代には貧困は過剰そのものから生ずる〔61〕」のである。
みればわかるように、フーリエは、彼の同時代人のヘーゲルと同じように巨匠ぶりを発揮して弁証法を駆使している。同じ弁証法をつかって、彼は、人間の能力は無限に完成してゆくというおしゃべりに反対して、おのおのの歴史的段階にはその上向きの枝があるとともにその下向きの枝もあるということを力説して〔62〕、この見方を全人類の将来にも適用している。ちょうどカントが地球は将来滅亡するという思想を自然科学に導き入れたように、フーリエは人類は将来滅亡するという思想を歴史観に導き入れたのである。
フランスで革命のあらしが国中をふきまくっていたあいだに、イギリスではより静かな、しかしそれにもかかわらず力づよい変革が進行していた。蒸気と新しい作業機とが、マニュファクチュアを近代的大工業に転化させ、それによってブルジョア社会の基礎全体を変革した。マニュファクチュア時代のゆっくりした発展の歩みは一変して、生産上のほんとうの疾風怒涛の時代になった。大資本家と無産のプロレタリアとへの社会の分裂は、ますます激しい速度ですすみ、この両者のあいだには、以前の安定した中産身分のかわりに、いまや不安定な職人や小商人の大衆が、つまり住民のなかの最も動揺の激しい部分が、ふたしかな生活をいとなんでいた。この新しい生産様式はまだやっと上昇線をたどりはじめたところであった。それはまだ正常な、正規の、当時の事情のもとでは唯一の可能な生産様式であった。だがすでにその当時、それは歴然たる社会的弊害を生みだしていた。すなわち、大都市の劣悪きわまる居住地に浮浪民がひしめきあっていたこと――慣習や家父長制的服従や家族といういっさいの伝来のきずなが解けたこと――過重な労働、とりわけ女性や児童の恐ろしいまでに過重な労働――突然まったく新たな諸関係に、農村から都市に、農業から工業に、安定した生活条件から日ごとに変化する不安な生活条件に投げこまれた労働者階級の風俗が大衆的に乱れたことがそれである。そのとき、二九歳の一工場主が改革者として登場した。彼は、崇高なまでに子供らしい単純な性格の人で、同時に、まれにみる天成の人間指導者であった。この人、すなわちロバート・オーウェンは、人間の性格は一方では生まれながらの体質の産物であるが、他方ではその生涯をつうじての、とりわけ発育期におけるその人の環境の産物である、という唯物論的啓蒙思想家の学説を身につけていた。彼と同じ身分の人々の大部分は、産業革命を、どさくさまぎれにうまいことをやってすばやく金をもうけるのに都合のよい混乱と混沌とみなしただけであった。ところが彼は、産業革命を、自分の日ごろの主義を実地に適用し、これによって混沌のうちに秩序をつくりだす好機であるとみなした。彼はすでにマンチェスターで、五〇〇人あまりの労働者のいるある工場の管理者として、これを試みて成功していたが、一八〇〇年から一八二九年まで、スコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場を、業務執行社員として、同じ方針で、ただまえよりもいっそう大きな行動の自由をもって管理し、ヨーロッパ中の評判になったほどの成功をおさめた。はじめはきわめて雑多な、しかも大部分はひどく堕落した分子からなりたっており、しだいに増加して二五〇〇人にもなった住民を、彼は完全な模範集落(コロニー)にかえてしまった。そこでは、泥酔も、警察も、刑事裁判官も、訴訟事件も、貧民救済も、慈悲の必要も、まったく見られなかった。しかもそのための方法はといえば、たんに、人々をもっと人間にふさわしい環境に移してやったということ、とくに成長中の世代を注意ぶかく教育させたということだけである。彼は幼稚園の発案者だったが、ここではじめてそれを実行に移した。二歳になると子供たちは幼稚園にはいった。そこでは彼らは非常に楽しくすごしたので、彼らを家につれかえるのに骨がおれるほどだった。彼の競争者たちは毎日一三時間から一四時間も作業させていたのに、ニュー・ラナークでは一〇時間半しか作業はおこなわれなかった。綿花恐慌のために四ヶ月間の休業をよぎなくされたときにも、休業中の労働者に賃金の全額がひきつづき支払われた。それでもなお、この企業はその価値を二倍以上にふやし、最後までその所有者たちのために豊かな利益をあげた。
それにもかかわらずオーウェンはすこしも満足しなかった。彼が自分の労働者たちにつくってやった生活も、彼の目から見れば、まだまだ人間にふさわしいものではなかった。
「この人々は私の奴隷であった。」
彼が労働者たちをおいてやった比較的良好な環境も、性格や理解力の全面的な合理的な発展をゆるすには、まして自由な生命活動をゆるすには、まだはるかに遠いものだった。
「それでも、この二五〇〇人のなかの労働する部分が社会のために生産した現実の富は、半世紀にも足りない以前には六〇万の人口がつくりだすことができたのと同じ量だった。そこで私は自問した。二五〇〇人が消費した富と六〇万人が消費したにちがいない富との差額は、どうなるのだろうか?」
その答えは明瞭であった。この差額は、企業の所有者たちに投下資本の五%の利子と、そのうえなお三〇万ポンド・スターリング(六〇〇万マルク)以上の利潤とをもたらすために使われたのである。そしてニュー・ラナークについていえることは、イギリスの全工場についていっそうよくあてはまることであった。
「機械がつくりだしたこの新しい富がなかったならば、ナポレオンをたおし貴族制度的社会原理を維持するための戦争は、とうていおこなわれえなかったことだろう。しかも、この新しい力は労働者階級がつくったものであった。〔*〕」
〔*〕 『精神と実践とにおける革命』から引用。これは、「ヨーロッパの赤色共和主義社会、共産主義者、社会主義者」のすべてにあてて書かれ、一八四八年にフランスの臨時政府におくられ、さらに「ヴィクトリア女王とその責任ある助言者たち」にもおくられた意見書である。
だからその果実もまた労働者階級のものであった。新しい強大な生産力は、これまではただ個々人を富まして大衆を奴隷化するのに役だってきただけであるが、オーウェンにとっては、社会改造の基礎を提供したのであり、万人の共有財産としてただ万人の共同の福祉のために働くべきものであった。
こうしたまったく実務的なやり方で、いわば商人的計算の結果として、オーウェンの共産主義は生まれた。それは、この実践的なものに向けられた性格を一貫して保持した。こうして一八二三年にオーウェンは、共産主義的集落(コロニー)によってアイルランドの貧困をとりのぞくことを提案し、建設費や年々の投下額や見込利益についての完備した見積書をこれにそえた〔63〕。こうして、彼の確定的な未来計画〔64〕のなかでは、平面図、正面図、鳥瞰図をふくむ細目の技術的仕上げが、十分な専門的知識をもっておこなわれているので、オーウェンの社会改良の方法をひとたび承認するならば、細目の仕組みにたいしては、専門家の見地からさえもほとんど文句のつけようがないほどであった。
共産主義への前進は、オーウェンの生涯における転回点であった。彼がただの博愛主義者として行動していたあいだは、彼が得たものは、富と喝采と名誉と名声にほかならなかった。彼はヨーロッパで最も人気のある人であった。彼と同じ身分の人々ばかりでなく、政治家や王侯たちも、彼の言うことに耳を傾け、それに賛成した。ところが、彼が共産主義理論をたずさえて現われると、局面は一変した。なによりも社会変革への道をとざしているように彼に思われたのは、三つの大きな障害物であった。すなわち、私有財産と宗教と現在の婚姻形態とである。彼がそれらを攻撃すれば、彼の前に立ちはだかるものがなんであるかを、彼は知っていた。すなわち、公的社会からの全面的な追放、自分の社会的地位全体の喪失である。しかし彼は、それらを容赦なく攻撃することをやめようとはしなかった。そして、その結果は彼の予想したとおりであった。公的社会から追放され、新聞からは黙殺され、その全財産をささげたアメリカでの共産主義的実験に失敗して貧乏になった彼は、直接に労働者階級に呼びかけ、彼らのあいだでなお三〇年も活動しつづけた。イギリスで労働者の利益のためにおこなわれた社会運動やほんとうの進歩はすべて、オーウェンの名と結びついている。こうして五年間努力したのちに、彼は一八一九年には工場における婦人・児童労働を制限する最初の法律を通過させた〔65〕。こうして彼は、イギリス全体の労働組合が単一の大労働組合連合に合同したときの最初の大会の議長をつとめた〔66〕。こうして彼は、完全な共産主義的社会制度にいたる過渡的方策として、一方では協同組合(消費協同組合および生産協同組合)を設立したが、これは、それ以来、商人も工場主もおもにまったく無用な人間であるということのすくなくとも実際的な証拠を提供してきた。また他方では彼は、労働市場〔67〕、すなわち、労働時間を単位とする労働紙幣をもちいて労働生産物を交換するための施設を設立した。この施設は、必然的に失敗せざるをえないものであったが、しかしはるか後年のプルードンの交換銀行〔68〕に完全にさきがけたものであった。とはいえ、それはまさに次の点でプルードンのものとは違っていた。すなわち、それはいっさいの社会的害悪の万能薬ではなくて、さらにずっと徹底的な社会改造への第一歩をなすにすぎないものとされていたという点で。
空想的社会主義者たちの考え方は、一九世紀の社会主義的見解をながいあいだ支配してきたし、部分的にはいまでも支配している。ごく最近にいたるまで、フランスとイギリスの社会主義者はみなこの考え方を信奉してきたし、ヴァイトリングをもふくめての初期のドイツの共産主義もまたこの考え方に属していた。彼らのすべてにとって社会主義とは、絶対的真理、理性、正義の表現なのであって、ひとたび発見されさえすれば、それ自身の力で世界を征服することのできるものなのである。絶対的真理は、時間、空間、および人間の歴史的発展とはかかわりのないものであるから、いつどこでそれが発見されるかは、まったくの偶然でしかない。そのうえこの場合に、絶対的真理や理性や正義なるものが、各流派の開祖によってそれぞれ違っている。そしてこの特殊な種類の絶対的真理や理性や正義が、各人のもとで、またもやその人の主観的理解力、その生活条件、その知識と思考訓練の程度によって制約されているので、絶対的真理相互のこの衝突では、おたがいにすりへらしあうよりほかには、解決のしようがない。そうなると、そこからは、折衷的な一種の平均的社会主義よりほかには、なにもでてきようがなかった。そしてまた実際に、今日までフランスやイギリスのたいていの社会主義的労働者の頭を支配しているのは、こうした平均的社会主義である。これはさまざまの宗派の開祖たちの比較的穏健な批判的意見や経済学上の命題や未来の社会についての構想の寄せ集めである。このような寄せ集めは、きわめて多様な色あいをふくむものであり、小川の丸い小石のように、論争の流れのなかで個々の構成要素が規定の明確さという鋭い角(カド)をすりへらされればすりへらされるほど、それだけ容易につくりあげられるものであった。社会主義を科学にするためには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかったのである。
☆ 二
さてそのあいだに、一八世紀のフランス哲学とならんで、またそれにつづいて、近代のドイツ哲学が生まれ、それはヘーゲルによって完結されていた。近代のドイツ哲学の最大の功績は、思考の最高形式としての弁証法をふたたびとりあげたことである。古代ギリシアの哲学者たちはみな生まれながらの、天成の弁証家であった。そして、彼らのうちの最も幅の広い学識の持ち主であったアリストテレスは、すでに弁証法的思考の最も根本的な諸形式をも研究していた。これに反して近世哲学は、そのうちにも弁証法の輝かしい代表者(たとえばデカルトやスピノザ)がいたとはいうものの、とりわけイギリスの影響によって、いわゆる形而上学的な考え方にますますはまりこんでいったのであって、一八世紀のフランス人たちもまた、すくなくも彼らの専門的な哲学的著作のなかでは、ほとんど例外なしにこの考え方に支配されていた。本来の哲学の外では、彼らもまた弁証法の傑作を生みだすことができた。ここではただディドロの『ラモーの甥〔69〕』とルソーの『人間不平等起源論』とをあげるだけにしておこう。――ここでは、この二つの思考方法について本質的なことを簡単に述べておこう。
われわれが自然、人間の歴史、ないしはわれわれ自身の精神活動を考察する場合に、まず第一にわれわれの前に現われるのは、もろもろの連関と相互作用がかぎりなくからみ合った姿である。このからみ合いのなかではどんなものも、もとのままのものではなく、もとのままのところ、もとのままの状態にとどまってはいないで、すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅している。したがってわれわれがまず見るのは全体の姿であって、そのなかでは個々の事物はまだ多かれ少なかれ後方にひっこんでいる。われわれは、運動し、移行し、連関しているものよりも、むしろ運動、移行、連関により多くの注意をむけているのである。この原始的な、素朴ではあるが、事柄の本質上正しい世界観が、古代ギリシア哲学の世界観であり、これはヘラクレイトスによって最初にはっきりと表明された。すなわち、万物は存在し、また存在しない。なぜなら、万物は流動しており、不断に変化し不断に生成と消滅のうちにあるからである、と。しかしながらこの見方は、諸現象の全体の姿の一般的な性格を正しくとらえているとはいうものの、この全体の姿を構成している個々の事物を説明するには不十分である。そしてわれわれが個々の事物を知らないかぎり、全体の姿もわれわれにとって明らかではないのである。これらの個々の事物を認識するためには、それらをその自然的または歴史的な連関からとり出して、それぞれ独立に、それらの性状、それらの特殊な原因や結果などにしたがって、それらを研究しなければならない。このことがさしあたり、自然科学と歴史研究との任務である。これらの研究部門は、なによりもまずそのための材料を努力して集めなければならなかったという誠にもっともな理由によって、古典時代のギリシア人のあいだでは従属的な地位しか占めていなかった。自然ならびに歴史にかんする材料がある程度まで集められてから、はじめて、批判的なふるいわけ、比較、あるいはまた綱や目や種への分類という仕事にとりかかることができる。だから、精密な自然研究は、よゆやくアレクサンドリア時代〔70〕のギリシア人のもとで始められ、のちに中世にアラブ人たちによって、さらに発展させられたのである。とはいえ、ほんとうの自然科学はやっと一五世紀の後半に始まるのであって、その時以来それは加速度的に進歩してきたのである。自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然対象を一定の部類に分けること、生物体の内部をそのさまざまな解剖学的形態について研究すること、これが最近の四〇〇年間に自然を認識するうえでなされた巨大な進歩の根本条件であった。しかし、同時にこの研究方法は、自然物や自然過程を個々ばらばらにして、大きな全体的連関の外でとらえるという習慣、したがって、それらを運動しているものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく固定不変のものとして、生きているものとしてではなく死んだものとしてとらえるという習慣をわれわれにのこした。そして、ベーコンやロックによっておこなわれたように、この考え方が自然科学から哲学にうつされたために、それは最近の数世紀に特有な偏狭さ、すなわち形而上学的な考え方をつくりだしたのである。
形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、一つずつ他のものと無関係に考察されるべき、固定した、硬直した、いちど与えられたらそれっきり変わらない研究対象である。形而上学者はものごとをまったく媒介のない対立のなかで考える。彼のことばは、しかりしかり、いないな、これにすぐるは悪より出ずるなり〔新約聖書、マタイ伝第五章三七〕、である。彼にとっては、ある一つの物は存在するかしないかのどちらかであり、その物はそれ自身であると同時に別の物であることはできない。肯定と否定とは絶対的に排除しあう。原因と結果も同様にこわばって動きのとれない相互対立をなしている。この考え方は、いわゆる常識の考え方であるので、一見したところきわめて明白であるように思われる。しかしこの常識というやつは、わが家の狭い日常茶飯事にかんしては相当のしろもろであるが、研究という広い世間にのりだすと、まったく驚くべき冒険に出会うのである。そして形而上学的な考え方は、対象の性質に応じて広狭の差のある、かなり広い領域で正当でもあれば必要でさえあるのだが、つねにおそかれはやかれ限界につきあたるのであって、この限界からさきでは、一面的な、偏狭な、抽象的なものとなり、解決できない矛盾にまよいこんでしまう。というわけは、形而上学的な考え方は、個々の物にとらわれてそれらの連関を忘れ、それらの存在にとらわれてそれらの生成と消滅を忘れ、それらの静止にとらわれてそれらの運動を忘れるからであり、ただ木だけをみて森をみないからである。日常の場合には、われわれはたとえば、ある動物が生きているか生きていないかを知っているし、そのどちらであるかをはっきりと言うことができる。けれどももっとくわしく研究してみると、これはしばしばきわめて複雑な問題であることがわかる。これは、ここからさきは胎児の致死が殺人になるという合理的な境い目を見つけようとして、さんざんむだ骨おりをしたことのある法律家たちがよく知っていることである。また同様に、死の瞬間を確定することも不可能である。というのは、生理学が明らかにしたところでは、死というものは一度でかたづく瞬間的なできごとではなくて、非常にながびく過程だからである。同様にどの生物も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものでない。それは各瞬間に、外から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する。各瞬間に、その身体の細胞が死滅して、新しい細胞が形成される。いずれにせよおそかれはやかれある時間ののちには、この身体の物質はまったく後進されて、他の物質原子によっておきかえられる。だから、どの生物体も、つねに同一のものであって、しかも別のものなのである。さらにいっそうくわしく考察すると、肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時にたがいに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっているということがわかる。同様に、原因と結果とは、これを個々の場合に適用するときにだけそのままあてはまる観念であって、個々の場合を世界全体との全般的関連のなかで考察するやいなや、両者は重なりあい、普遍的交互作用という見方に解消してしまうのであって、そこでは原因と結果とはたえずその位置を取り替え、いままたはここでは結果であったものが、あちらまたはあとでは原因になり、またその逆にもなるということがわかるのである。
すべてこれらの過程や思考方法は、形而上学的思考のわくにははまらない。これに反して、弁証法は事物とその概念による模写とを、本質的に、それらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるのであるから、弁証法にとっては、上述のような諸過程は、すべて弁証法自身のやり方を確証するものにほかならないのである。自然は弁証法の試金石である。そして、近代の自然科学はこの吟味のためにきわめて豊富な、日々に積み重ねられてゆく材料を提供し、そしてそのことによって、自然ではけっきょくすべてが形而上学的にではなく弁証法的におこなわれているということ、自然は永遠に一様なたえずくりかえされる循環運動をしているのではなくて、ほんとうの歴史を経過しているのだということを証明した、とわれわれは言わなければならない。この点ではだれよりもさきにダーウィンの名をあげなければならない。彼は、今日の生物界の全体が、植物も動物も、したがってまた人間も、幾百万年にわたっておこなわれた発展過程の産物であるということを証明することによって、形而上学的自然観に最も強力な打撃をあたえたのである。しかし、弁証法的に考えることを学び取った自然科学者はいままでのところ数えるほどしかいないので、発見された諸成果と従来からの考え方とが衝突をおこしており、現に理論的自然科学を支配していて、教師をも学生をも著者をも読者をも絶望に追いこんでいるはてしない混乱は、この衝突から説明がつくのである。
だから、世界全体とその発展、人類の発展、そしてまた人間の頭のなかでのこの発展の映像を正確に表わすことは、ただ弁証法的な道によってのみ、すなわち、生成と消滅、前進的または後退的変化の全般的交互作用にたえず注目することによってのみ、達成できるのである。そして近代のドイツ哲学もまた、この精神をもってただちに立ち現われた。カントはその〔学問的〕生涯のはじめにあたって、ニュートンの安定した太陽系とその――ひとたびあの有名な最初の衝撃をあたえられてからのちの――永遠の持続とを一つの歴史的な過程に解消させた。すなわち、一つの回転する星雲の塊りからの太陽とすべての遊星との発生に解消させた。そのさい、彼はすでに、太陽系のこのような発生とともにその将来の滅亡もまた必然的にあたえられているという結論をひきだしていた。彼の見解は、半世紀のちにラプラスによって数学的に基礎づけられ、さらに半世紀のちには、このような灼熱したガスの塊りがさまざまの凝縮度で宇宙空間に存在することが、分光器によって証明されたのである〔71〕。
この近代のドイツ哲学はヘーゲルの体系によってその完結に到達した。この体系のなかではじめて――そしてこのことがこの体系の大きな功績なのであるが――自然的・歴史的・精神的世界の全体が一つの過程として、すなわち、不断に運動し、変化し、改造され、発展するものとして把握され、叙述されたのであり、またこの運動や発展のうちにある内的連関を指示しようとする試みがなされたのである。この観点からすれば、人間の歴史はもはや無意味な暴力行為の雑然としたもつれあいとしては現われなかった。このような暴力行為は、いまや成熟に達した哲学者の理性の審判の前ではすべて一様に排斥されるべきものであり、できるだけ早く忘れてしまうにこしたことはないものである。人類の歴史はもはやこのようなものとしては現われないで、人類そのものの発展過程として現われるようになったのであって、この過程がいろいろなわき道をとおりながらもしだいに段階をおって進んでいったあとをたどり、あらゆる外見上の偶然性を貫くこの過程の内的合法則性を指示することが、いまでは思考の課題となったのである。
ヘーゲルの体系が自分で自分に課したこの課題を解決しなかったということは、ここではどうでもよいことである。彼の画期的な功績は、この課題を提起したことであった。これはまさに、だれでも一人では解決できない課題である。ヘーゲルは――サン-シモンとならんで――この時代の最も幅の広い学識の持ち主であったけれども、しかもなお、第一には、彼自身の知識の範囲が当然かぎられていたということによって、また第二には、彼の時代の知識と見解がやはり広さからも深さからもかぎられていたということによって、制限を受けていた。だがなおそれに第三の点がつけくわわる。ヘーゲルは観念論者であった。つまり、彼にとっては、彼の頭脳のなかの思想は現実の事物や過程の多かれ少なかれ抽象的な模写とは考えられないで、逆に、事物やその発展がすでに世界よりもまえからどこかに存在している「理念(イデー)」の現実化された模写でしかないと考えられたのである。こうして、すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関はまったくひっくりかえされていた。だから、個々の連関ではヘーゲルによって正しくかつ天才的にとらえられたものも多かったとはいえ、まえにあげたような理由によって、細部の点ではやはり多くの事柄がつぎはぎされ、作為され、こしらえられ、要するに、ゆがめられる結果とならざるをえなかったのである。ヘーゲルの体系そのものは巨大な流産であった――しかしまた、その種のものの最後のものでもあった。つまりそれはまだ、一つの内的な解決不可能な矛盾に悩んでいた。一方でこの体系が根本的な前提としていた歴史観によれば、人類の歴史は一つの発展過程であって、この過程はその本性上いわゆる絶対的な真理の発見によってその知識上の終結に達することはできないというのである。ところが、他方では、この体系こそはまさにこのような絶対的な真理の総体だと主張するのである。一切を包括し、終局的に完結した、自然と歴史との認識の体系というものは、弁証法的思考の根本法則と矛盾している。だが、こういったからといって、このことは、外的世界全体の体系的認識が世代から世代へと巨大な前進をとげることができるということをけっして排除するのではなく、むしろ反対にそれをふくんでいるのである。
従来のドイツ観念論がまったくまちがったものであることがわかってみると、どうしても唯物論へと進まざるをえなかった。だが、よく注意していただきたいのだが、一八世紀のたんに形而上学的な、もっぱら機械的な唯物論へと進んだのではない。これまでの一切の歴史を素朴な革命家のやり方であっさりと投げすてるのとは反対に、現代の唯物論は歴史を人類の発展過程とみるのであり、この発展過程の運動法則を発見することをその課題とするのである。自然とは、ニュートンが教えたような永遠の天体とリンネが教えたような不変の生物の種とからなっていて狭い循環をなして運動しているつねに変わることのない全体だという、一八世紀のフランス人たちのあいだでもヘーゲルにあってさえもなお支配的だった自然観とは反対に、現代の唯物論は自然科学の最新の進歩を総括している。これによれば、自然にもやはりその時間上の歴史があり、天体も、都合のよい環境があるときその天体上に住んでいる生物の種も、ともに生成しまた消滅するのであって、循環は、一般にそれがひきつづきおこなわれうるかぎりでは、無限に大きくなる規模をとるというのである。どちらの場合にも、現代の唯物論は本質的に弁証法的であって、他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としないのである。それぞれの個別科学にたいして、事物と事物にかんする知識との全体的連関のなかで自分の占める地位を明らかにせよという要求が提起されるやいなや、全体的連関を取り扱ういっさいの特殊な科学はよけいなものになる。そのとき、従来のすべての哲学のなかでなお独立に存続しつづけるものは、思考とその法則についての学説――形式論理学と弁証法である。そのほかのものはみな、自然と歴史についての実証科学に解消してしまうのである。
とはいえ、自然観における急転回は、研究がそれ相当の実証的な認識素材を提供した程度でしかおこなわれえなかったが、歴史観に決定的な方向転換をひきおこした歴史的諸事実は、それよりもずっとまえから効力を現わしていたのである。一八三一年にはリヨンで最初の労働者の蜂起がおこった。一八三八―一八四二年には、最初の国民的な労働運動、すなわちイギリスのチャーティスト運動がその頂点に達した。一方では大工業が、他方では新たに獲得したブルジョアジーの政治的支配が発展してきたのにつれて、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争が、ヨーロッパの最も先進的な国々の歴史の前面に現われてきた。資本と労働との利害は一致するとか、自由競争の結果として全般的な調和と国民の全般的福祉とがもたらされると説くブルジョア経済学の諸学説は、事実によってますますきびしくその虚偽をたたかれた。これらのことはみなもうこれ以上否認するわけにはいかなかった。それと同様に、きわめて不完全ながらもこれらのことの理論的な表現だったフランスやイギリスの社会主義もまた、これ以上否認するわけにはいかなかった。しかし、まだ駆逐されていなかったふるい観念論的な歴史観は、物質的利害にもとづく階級闘争というものを、およそ物質的利害というものを、まったく知らなかった。生産もいっさいの経済的関係も、この歴史観のなかでは、「文化史」の従属的な要素として、ただついでに現われただけだった。
これらの新しい事実にせまられて、これまでの歴史の全体が新しく研究しなおされるようになった。そしてその結果、次のようなことが明らかになった。すなわち、これまでのすべての歴史は、原始状態をべつにすれば、階級闘争の歴史であったということ、社会のなかのこれらのたがいに闘いあう諸階級は、いつでもその時代の生産関係と交易関係との、一言でいえば経済的諸関係の産物であるということ、したがって、社会のそのときどきの経済的構造が現実の土台をなしているのであって、それぞれの歴史的時期の法的および政治的諸制度や、宗教的、哲学的、その他の見解から成っている上部構造の全体は究極においてこの土台から説明されるべきであるということが明らかになった。ヘーゲルは歴史観を形而上学から解放して、これを弁証法的なものにした、――しかし彼の歴史観は本質的に観念論的なものであった。いまや観念論は、その最後の隠れ場所であった歴史観から追い出されて、唯物論的な歴史観があたえられた。そして、これまでのように人間の存在をその意識から説明するのではなく、人間の意識をその存在から説明する道を見いだされたのである。
こういうわけで、いまでは社会主義は、もはやあれこれの天才的な頭脳の持ち主の偶然的な発見物としてではなく、歴史的に成立した二つの階級、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の必然的な産物として、現われたのである。社会主義の課題は、もはや、できるだけ完全な社会体制を完成することではなくて、これらの階級とその対立抗争を必然的に発生させた歴史的な経済的な経過を研究し、この経過によってつくりだされた経済状態のうちにこの衝突を解決する手段を発見することであった。しかし、フランス唯物論の自然観が弁証法や最新の自然科学とあいいれなかったのと同様に、従来の社会主義はこういう唯物論的な見方とはあいいれなかった。従来の社会主義は、なるほど現存の資本主義的生産様式とその帰結とを批判しはしたけれども、それを説明することはできなかったし、したがってまたそれに決着をつけることもできなかった。それをただ簡単に悪いものとして拒否することができただけだった。従来の社会主義は、資本主義的生産様式と切り離せない労働者階級の搾取を激しく非難すればするほど、ますます、この搾取の本質がなんであるか、どうしてそれが発生するのかを明らかにすることはできなくなった。だが、問題は、一方では、資本主義的生産様式をその歴史的連関のなかで、また一定の歴史的時期にとってのその必然性を明らかにし、したがってまたその没落の必然性を示すことだったのであり、他方では、相変わらずおおいかくされたままだったこの生産様式の内的性格を暴露することだったのである。この仕事は剰余価値を明らかにすることによってなされた。不払労働の取得が資本主義的生産様式とそれによっておこなわれる労働者の搾取との基本形態であるということ、資本家は、彼の労働者の労働力を、それが商品として商品市場でもっている価値どおりに買う場合にさえも、自分がそれに支払ったよりも多くの価値をこの労働力から取りだすのだということ、そして、けっきょくこの剰余価値によって形成される価値額から、有産階級の手のなかでたえず増大する資本量が積み上げられるのだということ――これらのことが証明された。こうして、資本主義的生産と資本の生産との成り行きが説明されたのである。
これら二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、マルクスのおかげでわれわれに与えられたものである。これらの発見によって社会主義は科学になった。いまなによりもまず問題なのは、この科学をそのあらゆる細目と連関とについてさらに仕上げてゆくことである。
☆ 三
唯物史観は、次の命題から出発する。すなわち、生産が、そして生産の次にはその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であるということ、歴史上に現われたどの社会においても、生産物の分配は、それとともにまた諸階級または諸身分への社会の編成は、なにがどのようにして生産され、また生産されたものがどのようにして交換されるかによって決まるということ、である。この見地からすれば、いっさいの社会的変動と政治的変革との究極の原因は、人間の頭のなかにではなく、つまり人間が永遠の真理や正義をますます認識してゆくということにではなく、生産と交換の様式の変化に求めなければならない。つまり、それは哲学にではなく、その時代の経済に求めなければならない。現存の社会諸制度は不合理で不公正であり、また理性は無意味となり、幸いが災いになった〔ゲーテ『ファウスト』から〕という認識がますますめざめてゆくということは、生産方法と交換形態とのうちにいつのまにか変化がおこって、これまでの経済的諸条件にあわせてつくられた社会制度は、もはやこの変化に適合しなくなった、ということのひとつの兆候にすぎない。それはまた同時に、あかるみに出された弊害を除くための手段が、変化した生産関係そのもののうちに――多かれ少なかれ発展したかたちで――やはり存在しているにちがいない、ということを物語っている。これらの手段は、頭のなかから案出されうるようなものではなくて、頭によって眼前の物質的な生産事実のなかに発見されるべきものである。
では、この点からみるとき、現代の社会主義はどういうことになるか?
現在の社会制度は――いまではかなり一般に認められていることであるが――、今日の支配階級、つまりブルジョアジーによってつくりだされたものである。マルクスいらい資本主義的生産様式という名で言いあらわされているブルジョアジーに固有の生産様式は、封建制度の地域的および身分的な特権とも、人間相互間のさまざまな人身的束縛とも、あいいれなかった。ブルジョアジーは、封建制度を打ち砕き、その廃虚の上にブルジョア的社会体制をうちたてた。すなわち、自由競争、移転の自由、商品所有者たちの同権、その他あらゆるブルジョア的栄光の王国がうちたてられた。そのときいらい、資本主義的生産様式は、自由に発展することができるようになった。ブルジョアジーの指導のもとにつくりだされた生産関係〔*〕は、蒸気と新しい作業機とが旧来のマニュファクチュアを大工業につくり変えてからは、前代未聞の速度と規模で発展した。しかし、その当時マニュファクチュアとその影響をうけていっそうの発展をとげた手工業とが同職組合の封建的束縛と衝突するようになったのと同様に、大工業も、それがますます完全にでき上がってくるにつれて、資本主義的生産様式がそれをとじこめている諸制限と衝突するようになる。新しい生産力は、すでにその利用のブルジョア的形態をのりこえるまで成長した。しかも、生産力と生産様式とのあいだのこの衝突は、たとえば人間の原罪と神の正義との衝突のように人間の頭のなかに生じた衝突ではなくて、客観的に、われわれの外部に、それをひきおこした人間の意欲や行動そのものとは無関係に、事実のなかに存在しているのである。現代の社会主義は、この事実上の衝突の思想的反射にほかならず、なによりもまず直接にこの衝突のもとで苦しんでいる階級である労働者階級の頭のなかでのこの衝突の観念的反映にほかならないのである。
〔*〕 『反デューリング論』では、生産力となっている。
では、なにがこの衝突の本質なのか?
資本主義的生産以前、つまり中世では、ひろくおこなわれていた小経営は労働者がその生産手段を私的に所有することをその基礎としていた。自由な小農民または隷属小農民の耕作や都市の手工業がそれである。労働手段――土地、農具、仕事場、手工具――は、ただ個人的使用だけを考えてつくられた個々人の労働手段であり、したがって当然小型で、ちっぽけで、かぎられたものであった。だが、それだからこそ、それらは通例は生産者自身のものだったのである。これらの分散した、せせこましい生産手段を、集中し拡大すること、これらを強力に作用する現代式の生産の槓杆(テコ)に変えること、これこそが、資本主義的生産様式とその担い手であるブルジョアジーとの歴史的な役割だったのである。一五世紀このかた、単純協業とマニュファクチュアと大工業という三つの段階において、彼らがこの役割を歴史的になしとげてきたありさまを、マルクスは『資本論』第四篇〔72〕でくわしく叙述している。しかし、やはりそこで同じく論証されているように、ブルジョアジーは、個々人の生産手段を社会的な、多数の人間全体によってのみ使用されうる生産手段に変えることなしには、これらの制限された生産手段を強力な生産力に変えることはできなかった。紡ぎ車や手織機や鍛冶屋の鎚にかわって、紡績機械や力織機や蒸気ハンマーが現われ、個人的な仕事場にかわって、数百人、数千人もの協力を必要とする工場が現われた。そして、生産手段の場合と同様に、生産そのものも、一連の個人的な動作から一連の社会的な行為にかわり、そして生産物もまた、個々人の生産物から社会的な生産物にかわった。いまでは工場から出てきた紡糸や織物や金属製品は、多数の労働者の共同の生産物であって、それは、できあがるまでには彼らの手をつぎつぎに経なければならなかったものである。彼らのうちのだれも、それは自分がつくったのだ、それは自分の生産物だ、と言うことはできなかった。
ところで、自然発生的な、無計画的に徐々に発生した社会内の分業が生産の基本形態になっているところでは、この分業によって諸生産物はいやおうなしに商品という形態をとることになり、それら商品の相互交換つまり売買によって個々の生産者は彼らのさまざまな欲望をみたすことができるようになる。中世ではこのとおりであった。たとえば、農民は農産物を手工業者に売り、そのかわりに後者から手工製品を買っていた。ところが、このような、個人的生産者つまり商品生産者たちの社会のなかに、いまや新しい生産様式がはいりこんできた。社会全体のなかでおこなわれていた自然発生的な無計画的な分業のまっただなかに、この生産様式は、個々の工場のなかで組織されていた計画的な分業をもちこんだ。個人的生産とならんで社会的生産が現われた。両方の生産物は、同一の市場で売られ、したがってすくなくともだいたい同じ価格で売られた。だが、計画的な組織は自然発生的な分業よりも強力であった。社会的に作業をする工場は、個々別々の小生産者よりもその生産物を安く生産した。個人的生産は一つの分野から他の分野へとつぎつぎに倒れていった。社会的生産は古い生産様式全体を変革した。しかし、社会的生産のこのような革命的な性質はほとんど認識されなかったので、社会的生産は、かえって、商品生産をさかんにし促進する手段としてとりいれられた。社会的生産は、商品生産と商品交換との特定の既存の槓杆、つまり商人資本や手工業や賃労働と直接に結びついて発生した。社会的生産そのものが商品生産の一つの新しい形態として現われたのであるから、商品生産の取得形態は社会的生産にとってもやはり完全に効力を保っていたのである。
中世に発達していたような商品生産では、労働の生産物はだれのものであるべきかという問題はまったくおこりえなかった。通常、個々の生産者は、自分のものである原料、ときには自分で生産した原料から、自分の労働手段をつかって、自分または自分の家族の手労働で生産物を生産した。その生産物は、彼によってあらためて自分のものとされる必要はまったくなかった。それはまったくひとりでに彼のものであった。それゆえ、生産物の所有は自分の労働にもとづいていたのである。他人の助力が必要だった場合にも、この助力は通例は副次的なものであるにとどまり、しかもしばしば賃金以外になお別の報酬をうけた。たとえば、同職組合の徒弟や職人は、食事や賃金のためよりも、むしろみずから親方となる修業のために働いたのである。そこに現われたのが、大規模な仕事場や工場での生産手段の集積であり、生産手段の実際に社会的な生産手段への転化であった。しかし、この社会的な生産手段も社会的な生産物も、あいかわらず個々人の生産手段であり生産物であるかのように取り扱われた。これまでは、労働手段の所有者が生産物を自分のものにしたのは、その生産物が通常は彼自身の生産物であって他人の補助労働は例外だったからであるが、いまや労働手段の所有者は、それがもはや自分の生産物ではなくてただ他人の労働の生産物でしかないにもかかわらず、あいかわらずその生産物を自分のものにしたのである。こうして、それ以後は、社会的に生産された生産物は、生産手段を実際にうごかし生産物を実際につくりだした人々によって自分のものにされないで、資本家によって自分のものにされたのである。生産手段も生産も、本質的には社会的になった。だが、この生産手段や生産がそのもとに置かれている取得形態は、個々人の私的生産を前提としており、したがってそこでは各人は自分自身の生産物の所有者であってそれを市場にもちだすのである。生産様式は、このような取得形態の前提を廃棄するにもかかわらず、この取得形態のもとに置かれるのである〔*〕。このような矛盾がこの新しい生産様式に資本主義的な性格をあたえるのであるが、この矛盾のうちにこそ、現代のすべての衝突がすでに萌芽としてふくまれているのである。新しい生産様式が、すべての決定的な生産分野で、またすべての経済的に決定的な国々で、ますます支配的となり、したがって個人的生産が駆逐されてとるにたりない残り物だけになってしまえばしまうほど、社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾は、ますますはっきりとあかるみに出てこないわけにはいかなかったのである。
〔*〕 ここに説明するまでもなく、取得形態はもとのままであっても、取得の性格は、前述のような経過によって、生産におとらず変革されるのである。私が私自身の生産物を自分のものにするか、それとも他人の生産物を自分のものにするか、ということは、もちろん二つの非常に違った種類の取得である。ついでにいえば、賃労働のなかには資本主義的生産様式全体がすでに萌芽としてひそんでいるのであるが、それは、非常に古いものである。それは、奴隷制度とならんで、個別的分散的には数百年間おこなわれてきた。だが、その萌芽も、歴史的な前提諸条件がつくりだされてからはじめて資本主義的生産様式に発展することができたのである。
まえに述べたように、最初の資本家たちにとっては賃労働という形態はすでに存在していた。しかしそれは、例外としての、副業としての、一時しのぎとしての、つなぎとしての、賃労働であった。ときおり日傭とりに出かけた農業労働者も、何モルゲン〔一モルゲンは約半エーカー〕かの自身の土地をもっていて、それだけでもかつかつの生計をたてることができた。同職組合の規則は、今日の職人も明日は親方となれるように取り計らっていた。しかし、生産手段が社会的なものになって資本家たちの手に集積されたとき、こういう事情は一変した。小さな個人的生産者の生産手段も生産物もますます無価値なものとなった。彼に残された道は、資本家のところに行って賃金をもらうよりほかにはなかった。以前は例外で一時しのぎであった賃労働が全生産の常例となり、基本形態となった。それは、以前は副業だったが、いまでは労働者の唯一の仕事となった。一時的な賃金労働者が終身の賃金労働者になった。しかもそのうえ、終身の賃金労働者の数は、同時におこった封建的秩序の崩壊、封建領主の家臣団の解体、屋敷つき農場からの農民の追い出しなどによって、非常にふえた。一方では資本家の手に集積された生産手段と、他方では自分の労働力のほかにはなにも持ち物がないようにされた生産者とのあいだに、分離が実現された。社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾が、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立となって、あかるみに出てきたのである。
すでにみたように、資本主義的生産様式は商品生産者たちの社会に割りこんできたのであるが、この商品生産者は個人的生産者であって彼らの社会的な連関は彼らの生産物の交換によって媒介されていた。しかし、商品生産にもとづく社会は、すべて、そのなかでは生産者たちが彼ら自身の社会的連関にたいする支配力を失っているという特徴をもっている。各人は、めいめい、たまたま自分のものになっている生産手段を用いて、自分の特殊な交換欲求のために、生産する。だれにも、自分の品物と同じものがどれだけ市場に出てくるのか、そのうちのいったいどれだけが使用されるのかは、わからない。だれにも、自分の個人的生産物が実際の需要を見いだせるかどうか、かかった費用を回収できるかどうか、または、とにかくそれが売れるかどうか、はわからない。そこで支配しているのは、社会的生産の無政府状態である。だが、商品生産も、他のすべての生産形態と同様に、それに特有な、それに内在する、それと切り離せない諸法則をもっている。そして、これらの法則は、このような無政府状態にもかかわらず、無政府状態のなかで、無政府状態をとおして、自分を貫くのである。これらの法則は、社会的な連関の唯一の存続する形態である交換のうちに現われて、個々の生産者にたいして競争の強制法則として効力を現わす。だから、これらの法則は、最初は生産者たち自身にも気づかれないものであって、長い経験をとおしてはじめてしだいに彼らによって発見されなければならない。つまり、これらの法則は、生産者たちから独立して、生産者たちにさからって、彼らの生産形態の盲目的に作用する自然法則として自分を貫くのである。生産物が生産者たちを支配するのである。
中世の社会では、ことにはじめの数世紀間は、生産は本質的に自家消費を目的としていた。それはおもに生産者とその家族との欲望をみたしただけだった。田舎でのように人身的な隷属関係が存続していたところでは、生産はまた封建領主の欲望をみたすことにも役だった。だからこの場合には、交換はまったくおこなわれなかったし、したがってまた生産物が商品の性格をとることもなかった。農民の家族は、食料だけでなく器具でも衣服でも、自分たちに必要なものはほとんどなんでも生産した。彼ら自身の必要を越えた、そしてまた封建領主に支払うべき現物貢納を越えた、ある余剰を生産するようになったとき、はじめて彼らは商品をも生産するようになった。つまり、この余剰が社会的な交換のなかに投げいれられ、売りに出されて、商品になったのである。都市の手工業者は、たしかに、すぐはじめから交換のために生産しなければならなかった。だが彼らもまた自家必需品の大部分を自分で働いてつくっていた。彼らは庭や小さな畑をもっていた。彼らは自分の家畜を共有林に放牧したが、この共有林はさらに彼らに用材や燃料を供給した。また女たちは、亜麻や羊毛をつむいだりした。交換を目的とした生産、つまり商品生産は、やっと発生したばかりであった。だから、交換はかぎられ、市場は狭小であり、生産方法は固定したままであって、外にむかっては地域的な閉鎖が、内にむかっては地域的な団結がおこなわれた。すなわち、田舎にはマルク〔73〕があり、都市には同職組合があった。
ところが、商品生産がひろがるとともに、ことに資本主義的生産様式が現われるとともに、これまでねむっていた商品生産の諸法則は、ずっとおおっぴらに、またずっと強力に作用しはじめた。古い団結はゆるめられ、古い閉鎖的なわくはやぶられ、生産者はますます独立の、個々別々の商品生産者になった。社会的生産の無政府状態はあかるみに出てきてますます極端におしすすめられた。ところが、資本主義的生産様式が社会的生産におけるこの無政府状態をひどくするのに用いた主要な手段は、無政府状態とは正反対のものであった。それは、各個の生産施設のなかで生産がますます社会的な生産として組織されてゆくことであった。この槓杆(テコ)をつかって、資本主義的生産様式は古くからの平穏な固定した状態に結末をつけた。資本主義的生産様式が或る産業部門で採用されると、それは古くからの経営方法が自分と並存することをゆるさなかった。それが手工業をとらえると、それは古い手工業をほろぼした。労働の分野は戦場となった。地理上の大発〔74〕見とそれにつづく植民とは、商品の販路を何倍にもひろげ、手工業のマニュファクチュアへの転化を促進した。ただたんに個々の局地的生産者たちのあいだで闘争が始まっただけではなかった。局地的な闘争はまた国民的な闘争に、一七世紀および一八世紀の商品戦争〔75〕にまで発展した。最後に大工業が、そして世界市場の成立が、この闘争を普遍的なものにすると同時にそれをこれまでに例のない激烈なものにした。個々の資本家のあいだでも、産業と産業とのあいだでも、国と国とのあいだでも、自然的または人為的な生産諸条件の良否が死活を決定する。敗者は容赦なく除き去られる。これは、ダーウィンの個体生存競争が、何倍もの狂暴さで自然から社会にうつされたものである。動物の自然状態が人類発展の頂点として現われるのである。社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾は、いまや個々の工場のなかでの生産の組織と社会全体のなかでの生産の無政府状態とのあいだの対立として現われるのである。
資本主義的生産様式は、その起源からしてそれに内在する矛盾のこれら二つの現象形態のなかで運動しており、すでにフーリエがこの生産様式に発見したあの「悪循環」を描いて、それからぬけだすことができないのである。もちろんフーリエが彼の時代にはまだ見ることができなかったのは、この循環がしだいに狭くなってくるということであり、この運動はむしろ一つの螺旋を表わしていて、ちょうど惑星の運動のように中心との衝突によって終末に達せざるをえない、ということである。生産の社会的な無政府状態という推進力が大多数の人間をますますプロレタリアに転化するのであるが、やがてはこのプロレタリア大衆が、この生産の無政府状態をついに終わらせるであろう。生産の社会的な無政府状態の推進力はまた、大工業の無限の機械改良の可能性を、それぞれの産業資本家にとって、没落したくないなら自分の機械をますます改良してゆかなければならない、という強制命令に転化する。だが、機械の改良は、人間労働をよけいなものにすることである。機械の採用や増加が、わずかばかりの機械労働者によって数百万の手工労働者を駆逐することを意味するとすれば、機械の改良は、ますます多くの機械労働者そのものを駆逐することを意味しており、結局は、資本の平均的な雇用欲求を越えた数の、いつでも利用できる賃金労働者をつくりだすことを意味している。このような賃金労働者は、私がすでに一八四五年に〔*〕完全な産業予備軍と名づけたものであって、それは、産業が大馬力で活動するときは自由に利用され、そのあとに必ず現われる破局によって街頭に投げだされ、労働者階級と資本との生存闘争ではいつでも労働者階級の足についている鉛のおもりであり、労賃を資本の要求に合った低い水準に維持するための調節器である。このようにして、機械は、マルクスの言葉を借りて言えば、労働者階級にたいする資本の最も強力な闘争手段になるのであり、労働手段はたえず労働者の手から生活手段を取り上げるのであり、労働者自身の生産物は一変して労働者を奴隷化するための道具になるのである〔『資本論』第一巻第一三章第五節〕。こうして、労働手段の節約は、はじめから同時に労働力の最も容赦ない乱費となり、労働機能の正常な諸前提の強奪〔『資本論』第一巻第一三章第八節b〕となるのであり、労働時間の短縮のための最も強力な手段である機械は、労働者とその家族との全生活時間を資本の増殖のために利用できる労働時間に転化させるための最も確実な手段に一変するのである。このようにして、一方の人の過度労働は他方の人の失業の前提になるのであり、新しい消費者をもとめて世界を狩りつくす大工業は、国内では大衆の消費を飢餓的最低限度まで制限し、こうして自分自身の国内市場を破壊するのである。「相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも資本蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストゥスの楔(クサビ)がプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっとかたく労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級のがわでの、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」(マルクス、『資本論』六七一ページ〔『資本論』第一巻第二三章第四節〕)しかも資本主義的生産様式からこれと違った生産物分配を期待するのは、電極が電池と結びつけられているのに電極が水を分解しないように要求し、陽極に酸素を陰極に水素を発生させないように要求するのと同じことであろう。
〔*〕 『イギリスにおける労働者階級の状態』一〇九ページ〔全集、第二巻、三一五―三一六ページ〕。
すでに見たように、現代の機械の改良可能性は非常に増大しているが、社会のなかでの生産の無政府状態によって、この可能性は、個々の産業資本家にとっては、自分の機械をたえず改良し、機械の生産力をたえず高めなければならないという強制命令に転化する。産業資本家にとっては、自分の生産範囲を拡大するというたんなる事実上の可能性もまた同様な強制命令に転化する。大工業の巨大な膨張力にくらべれば気体の膨張力などはまったくの児戯にひとしいのであるが、それはいまやわれわれの眼前に、どんな抵抗をもものともしない質的でもあり量的でもある膨張欲求として現われる。そのような抵抗をするのは、消費であり、売れ行きであり、大工業の生産物のための市場である。ところが、市場の拡大能力は、外延的なものであれ集約的なものであれ、さしあたりはまったく別な、作用力のはるかに弱い法則によって支配される。市場の拡大は生産の拡大と歩調をあわせることができない。衝突はさけられなくなる。しかもその衝突は、それが資本主義的生産様式そのものを爆破しないかぎり、どんな解決方法をも生みだすことができないので、周期的になる。資本主義的生産は、ひとつの新しい「悪循環」を生みだすのである。
じっさい、最初の一般的恐慌が起こった一八二五年いらい、産業界および商業界の全体は、すべての文明諸国民とその多かれ少なかれ未開な従属諸国民との生産と交換は、ほとんど一〇年に一度はめちゃめちゃになっている。交易は停滞し、市場はあふれ、生産物はさばけないで大量にそのままになっており、現金は姿をかくし、信用はなくなり、工場は休業し、労働大衆は多すぎる生活手段を生産したために生活手段にことかき、破産は破産につづき、強制売却は強制売却につづく。停滞は何年もつづき、生産力も生産物も大量に浪費され破壊されて、けっきょく、山と積まれた商品が多かれ少なかれ下落した価格でさばかれてゆき、やっと生産と交換が徐々にふたたびうごくようになる。歩調はだんだんはやくなって速歩(ハヤアシ)となり、この産業上の速歩は駆走(カケアシ)にうつり、さらに速度をあげて、ついに完全な産業上、商業上、信用上、投機上の、障害物競馬での手綱なしの疾駆となり、そして最後に何回かのまったく命がけの跳躍ののちにまたしても行きつくのは――倒産という穴のなかである。そして、これが何回でもくりかえされる。一八二五年いらい、いまではわれわれはこれをまる五回経験し、現在(一八七七年)六回目を経験している。そしてこれらの恐慌の特性はきわめてはっきりしているので、フーリエが最初の恐慌を過剰による恐慌〔crise plethorique〔76〕〕と名づけたのは、これらのどの恐慌にもぴったりあてはまる。
恐慌では社会的生産と資本主義的取得との矛盾が暴力的に爆発する。商品流通は一時破壊され、流通手段である貨幣は流通の障害物になる。商品生産と商品流通とのいっさいの法則は、逆立ちさせられる。経済的衝突はその頂点に達している。生産様式が交換様式に反逆するのである。
工場内の生産の社会的な組織が発達して、それと並びそれの上に存立する社会内の生産の無政府状態と両立できない点に達しているという事実、――この事実は、恐慌のときに多くの大資本家やもっと多くの小資本家の破滅をつうじておこなわれるむりやりの資本集中によって、資本家たち自身の目にもはっきりとわかる。資本主義的生産様式の全機構が、この生産様式自身によって生みだされた生産力の圧力のもとで、もはや役にたたなくなる。この生産様式はこの大量の生産手段をもはや全部は資本に転化させることができない。この大量の生産手段は遊休している。それだからこそ、産業予備軍も遊休していなければならない。生産手段も生活手段も利用できる労働者も、生産と一般的富とのいっさいの要素がありあまっている。ところが、「ありあまる豊富が困窮と欠乏との源泉になる」(フーリエ)。なぜなら、まさにこの豊富そのものが生産手段と生活手段の資本への転化をさまたげているからである。というのは、資本主義社会では生産手段は、それがまえもって資本に、つまり人間の労働力を搾取する手段に転化していないかぎり、活動を始めることができないからである。生産手段と生活手段とが資本の性質をとらなければならないという必然性は、まるで幽霊のように、これらのものと労働者とのあいだに立ちはだかる。ただこの必然性だけが生産の物的な槓杆(テコ)と人的な槓杆とが結合することをさまたげるのである。ただこの必然性だけが生産手段には機能することを禁止し、労働者たちには労働し生活することを禁止するのである。こうして、一方では、資本主義的生産様式は、これらの生産力をこれ以上管理する能力が自分にないことを認めざるをえなくなる。他方では、これらの生産力そのものが、この矛盾の廃棄を、つまり生産力自身が自分の資本としての性質から解放されることを、社会的生産力としての自分の性格が事実上承認されることを、ますます強い力でせまるのである。
力づよく成長してゆく生産力が自分の資本としての性質にくわえるこの反抗、生産力の社会的性質の承認をせまるこのますます厳しくなってゆく強制こそは、資本家階級自身にたいして、およそ資本関係の内部で可能なかぎり、この生産力を社会的生産力として取り扱うことを、ますます強要するのである。無制限な信用膨張をともなう産業活況期も、大規模な資本主義的企業の倒産による破局そのものも、ますます大量の生産手段が、さまざまな種類の株式会社となってわれわれの前に現われるようなあの社会化の形態をとるように駆りたてる。これらの生産手段や交通手段のなかには、たとえば鉄道のように、はじめから非常に巨大なためにそのほかのどんな資本主義的利用形態をも受けつけないものもある。ある発展段階に達すれば、この形態でさえももはや十分ではなくなる。同じ産業部門に属する国内の大生産者たちは、結合してひとつの「トラスト」を、つまり生産の調節を目的とする一つの結合体をつくる。彼らは、生産すべき総量を定め、それを彼ら自身のあいだに割り当て、こうしてあらかじめ確定された販売価格を強制する。だが、このようなトラストも、ひとたび営業不振の時期にあえばたいてい瓦解するのであって、それだからこそトラストはもっと集中的な社会化へと追い立てるのである。すなわち、一産業部門全体がただ一つの大きな株式会社になってしまい、国内の競争はこの一つの会社の国内独占に席をゆずるのである。それは一八九〇年にもイギリスのアルカリ生産でおこなわれている。このアルカリ生産は、四八の大工場が全部合同したのち、今日では、一億二〇〇〇万マルクの資本金をもち統一的に管理される単一の会社の手で経営されているのである。
トラストでは自由競争は独占に一変し、資本主義社会の無計画な生産は、せまりくる社会主義社会の計画的な生産に降服する。もちろん、さしあたりはまだ資本家たちのためのものである。だが、ここでは搾取は手にとるように明らかになるので、それはどうしても崩壊しなければならなくなる。どの国民もトラストによって支配される生産、ひとにぎりの利札切りたちによる社会全体のあからさまな搾取に甘んじてはいないであろう。
いずれにせよ、トラストがあろうとなかろうと、結局は資本主義社会の公式の代表者である国家が生産の管理をひきうけなければならない〔*〕。このような、国有への転化の必然性は、なによりもまず大規模な交通施設すなわち郵便や電信や鉄道の場合に現われる。
〔*〕 私は言う、なければならない、と。なぜなら、生産手段または交通手段が現実に株式会社による管理の手におえないまでに発達し、したがって、国有化が経済上不可避的となった場合にだけ、ただこの場合にかぎって、たとえそれをおこなうものが今日の国家であっても、国有化は、ひとつの経済的進歩を意味するからである。つまり、社会そのものによるいっさいの生産力の掌握にいたるひとつの新たな前段階を達成したことを意味するからである。ところが最近、ビスマルクが国有化に熱中しだしてから、あらゆる国有化を、ビスマルクのそれをさえも、文句なく社会主義的であると宣言する一種のえせ社会主義が現われ、しかもときにはいくらか追従にさえなりさがっている。たしかに、もしタバコの国有化が社会主義的であるならば、ナポレオンもメッテルニヒもみな社会主義の元祖のうちにはいるであろう。ベルギー国家がまったくありふれた政治的・財政的理由から自国の主要な鉄道を自分の手で建設したとき、またビスマルクが、なんの経済的必要もないのに、プロイセンの鉄道幹線を国有化して、ただたんに戦時にそなえてそれをいっそうよく整備し利用することができるようにし、鉄道官吏を政府に投票する家畜の群れに育てあげようとし、またとりわけ議会の決議に拘束されないひとつの新しい財源をつくりだそうとしたとき、――これはけっして直接的にも間接的にも意識的にも無意識的にも社会主義的な処置ではなかったのである。もしそうでないというならば、プロイセンの王室海外貿易所や、王室陶器製造所や、また陸軍製絨廠でさえも、さらにまた、フリードリヒ・ヴィウヘルム三世の治下の三〇年代に、ある山師によって大まじめに提案された女郎屋の国有化でさえも、社会主義的施設だということになるであろう。
恐慌がブルジョアジーには現代の生産力をこれ以上管理する能力がないということを暴露したとすれば、大規模な生産施設や交通施設の株式会社やトラストや国有への転化は、この目的のためにはブルジョアジーはなくてもよいということを示している。資本家のすべての社会的機能はいまでは有給の使用人によって代行されている。資本家には、収入を取りこむこと、利札を切ること、いろいろな資本家がたがいに資本の取り合いをやる取引所で賭けをすることのほかには、なにも社会的な仕事はないのである。資本主義的生産様式は、まず労働者を駆逐したが、いまでは資本家たちを駆逐するのであって、彼らを、労働者とまったく同様に、たとえさしあたりはまだ産業予備軍のなかへではなくても、過剰人口のなかへ追放するのである。
しかし、株式会社やトラストへの転化も国有への転化も、まだ生産力の資本としての性質を廃棄するものではない。株式会社やトラストではこのことは明白である。そして、近代国家もまた、資本主義的生産様式の一般的な外的諸条件を、労働者や個々の資本家の侵害からまもるために、ブルジョア社会が自分のためにつくりだした組織でしかない。近代国家は、その形態がどうであろうと、本質的に資本主義的な機関であり、資本家の国家であり、観念的な総資本家である。近代国家が生産力を自分の所有に移せば移すほど、それはますます現実の総資本家になるのであり、ますます国民を搾取するのである。労働者はあいかわらず賃金労働者であり、プロレタリアである。資本関係は廃棄されないで、むしろ極端にまでおしすすめられる。しかし、その極端に達すると、資本関係はひっくりかえる。生産力の国有は、衝突の解決ではないが、しかしそれはそれ自身のなかに解決の形式上の手段、その手がかりを宿している。
この解決は、現代の生産力の社会的な性質が実際に承認されるということのうちにしかありえない。したがって、生産様式、取得様式、交換様式を生産手段の社会的な性格と調和させるということのうちにしかありえない。そしてこういうことが起こりうるのは、ただ、社会の手によるよりほかには管理できないまでに成長した生産力を、社会が公然と直接に掌握することによってだけである。それとともに、今日では生産者自身に反抗し、生産・交換様式を周期的につきやぶり、ただ盲目的に作用する自然法則として、暴力的に破壊的に自分を貫くだけの生産手段と生産物の社会的な性格は、生産者たちによって十分意識的に有効にはたらかされるようになり、撹乱や周期的な崩壊の原因から一変して、生産そのものの最も強力な槓杆になるのである。
社会的に作用する諸力も、自然力とまったく同じことで、われわれがそれらを認識せず、考慮にいれないあいだは、盲目的に、暴力的に、破壊的に作用する。しかし、ひとたびわれわれがそれらを認識し、その活動、その方向、その効果を理解すれば、それらをますますわれわれの意志に服従させ、それらを手段としてわれわれの目的を達成することは、まったくわれわれのやり方しだいである。しかも、このことは今日の強大な生産力にはとりわけよくあてはまる。われわれがこれらの生産力の本性や性格を理解することを頑強にこばんでいるあいだは――そしてこの理解に反抗しているのが資本主義的生産様式とその弁護者たちなのである――、そのあいだはこれらの生産力は、われわれを無視し、われわれにさからって効力を発揮し、すでにくわしく述べたように、われわれを支配する。しかし、ひとたびその本性を理解するならば、この生産力を結合した生産者たちの手で悪魔のような支配者から従順な召使にかえることができる。それは、雷雨の稲妻のなかの電気の破壊力と電信やアーク燈の手なずけられた電気との違いであり、火災の火と人間のためにはたらく火との違いである。このように今日の生産力をついに認識されたその本性にしたがって取り扱うようになれば、社会的な生産の無政府状態にかわって、社会全体と各個々人との欲望に応じての社会的・計画的な生産規制が現われてくる。それとともに、資本主義的取得様式、すなわち、生産物がまず生産者を奴隷化し次にはまた取得者をも奴隷化する取得様式は、現代の生産手段そのものの本性に基礎をおく生産物取得様式にとってかわられる。すなわち、一方では生産を維持し拡大するための手段としての直接に社会的な取得にとってかわられ、他方では生活手段および享楽手段としての直接に個人的な取得にとってかわられるのである。
資本主義的生産様式は、ますます人口の大多数をプロレタリアに転化させることによって、破滅を賭してこの変革をなしとげることを強要されている勢力をつくりだす。資本主義的生産様式は、大規模な社会化された生産手段の国有への転化をますます促進することによって、それ自身この変革を遂行するための道をさし示している。プロレタリアートは国家権力を掌握して、生産手段をまず国有に転化させる。だが、そうすることによってプロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を廃棄し、またそれによっていっさいの階級差別や階級対立を廃棄し、したがってまた国家としての国家をも廃棄する。階級対立のなかで運動してきた従来の社会は国家を必要とした。いいかえれば、そのときどきの搾取階級が自分の外的な生産条件を維持するための組織、したがってとくに、被搾取階級を既存の生産様式によってあたえられた抑圧条件(奴隷制、農奴制また隷農制、賃労働制)のなかにむりやりにおさえつけておくための組織を必要とした。国家は社会全体の公式の代表者であり、目に見える一つの団体に全社会を総括したものであった。しかし、国家がこのようなものであったのは、ただ、それ自身がその時代に全社会を代表していた階級の国家であったかぎりでのことだった。すなわち、古代では奴隷を所有する公民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの国家である。しかし、国家は、最後に実際に全社会の代表者になることによって、自分自身をよけいなものにする。抑圧しておかなければならない社会階級がもはやなくなってしまえば、そして、階級支配が除去され、これまでの生産の無政府状態にもとづく個体生存競争が除去されるとともに、これらのものから生ずる衝突や乱暴もまた除去されてしまえば、特別な抑圧権力である国家を必要とした抑圧しなければならないものはもはやなにもなくなる。国家が現実に全社会の代表者として行動する最初の行為――社会の名において生産手段を掌握すること――は、同時に国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会的諸関係への国家権力の干渉は、一つの分野から他の分野へとつぎつぎによけいなものになってゆき、やがてひとりでにねむりこんでしまう。人にたいする統治にかわって、物の管理と生産過程の指導とが現われる。国家は、「廃止される」のではない。それは死滅するのである。だから、「自由な人民国家〔78〕」という空文句は、そのさしあたりの煽動上の正しさという面からも、またその最終的な科学的な不十分さという面からも、右に述べたところによって評価されなければならない。国家はきょうあすにも廃止されなければならないといういわゆる無政府主義者たちの要求もまたこれによって評価されなければならない。
社会がすべての生産手段を掌握するということは、資本主義的生産様式が歴史に登場していらい、個人的にも宗派全体にとっても、多かれ少なかれ漠然と未来の理想として思い浮かべられたことがあった。だが、それは、その実行のための現実的諸条件が存在したとき、はじめて可能となり、はじめて歴史的必然となることができた。それが実行可能になるのは、他のいっさいの社会的進歩と同様に、いろいろな階級の存在が正義や平等などと矛盾するということが認識されるからではなく、またこれらの階級を廃止しようというたんなる意志によるのでもなくて、いくつかの新たな経済的諸条件によるのである。搾取階級と被搾取階級、支配階級と被抑圧階級に社会が分裂したのは、これまでは生産の発展が貧弱だったことの必然的な結果であった。社会的総労働が、全員の乏しい生活のために必要なものをほんのわずかこえるだけの成果しかもたらさないあいだは、つまり、大多数の社会成員のすべての時間またはほとんどすべての時間が労働にとられているあいだは、この社会は必然的に諸階級に分裂する。もっぱら労働のとりこになっている大多数の人々とならんで、直接的・生産的労働から解放された一階級が形成されて、この階級が社会の共同の用務、すなわち労働の指導や国務や司法や科学や芸術などに従事するのである。だから、分業の法則が階級分化の基礎をなすのである。だが、このことは、このような階級区分が暴力や略奪、策略や欺瞞によって実現されたということ、また、支配階級がひとたびその地位につけば必ず労働する階級を犠牲にして自分の支配を固め、社会的指導を大衆の搾取の強化に転じたということを、否定するものではない。
だが、このように諸階級の区分がある種の歴史的な根拠をもっているとしても、それはただある一定の期間、一定の歴史的諸条件にたいしてだけである。それは生産が不十分なことにもとづいていたのである。それは現代の生産力の十分な発達によって一掃されるであろう。そして、じっさい、社会的諸階級の廃止は一つの歴史的発展段階を前提するのであって、この段階ではあれこれの特定の支配階級の存立だけではなく、支配階級一般の存立が、したがって階級差別そのものの存立が時代錯誤になっており、古くさくなっているのである。つまり、それは生産の高度な発展を前提するのであって、この発展度のもとでは一つの特別な社会階級による生産手段と生産物との領有は、したがってまたその階級による政治的支配や文化の独占や精神的指導の領有も、ただよけいなものになるだけではなく、経済的にも政治的にも精神的にも発展の障害になってしまうのである。いまではもうこういう点に到達しているのである。ブルジョアジーの政治的および精神的な破産はブルジョアジー自身にとってももはやほとんど秘密ではないし、またその経済的な破産も規則的に一〇年ごとにくりかえされている。恐慌が起こるたびに、社会は、自分自身のものでありながら自分のために役だてることのできない生産力と生産物との重圧のもとに窒息する。そして、消費者がいないために生産者はなにも消費することができないというばかばかしい矛盾を前にしてどうすることもできない。生産手段の膨張力は、資本主義的生産様式によってはめられた桎梏をつきやぶる。この桎梏から生産手段の膨張力を解放することは、生産力が絶えまなくますます急速に発展するための、したがってまた生産そのものが実際に無制限に増大するための、唯一の前提条件である。それだけではない。生産手段の社会的領有は、たんに現存の人為的な生産障害を除去するだけではなく、また現在は生産に不可避的に付随するものであって恐慌のさいにその頂点に達するところの、生産力と生産物との積極的な浪費や破壊をも除去する。さらにそれは、今日の支配階級やその政治的代表者たちのばかげた奢侈的浪費を除去することによって、大量の生産手段と生産物とを社会全体のために自由に利用できるようにする。ただたんに物質的にまったく十分であり日ましにますます豊かになってゆくだけではなく、さらに社会全員の肉体的・精神的素養の完全で自由な育成や活動をも保証するような生存を、社会的生産によって社会全員のために確保してやる可能性、この可能性は、いまはじめてここにある。そうだ、ここにあるのだ〔*〕。
〔*〕 二、三の数字をみても、現代の生産手段の膨張力は、資本主義的圧迫のもとでさえ、どんなに大きいものであるか、おおよその観念が得られるであろう。ギッフェンの計算によれば〔79〕、大ブリテンとアイルランドとの富の総額は、概数で次の額にのぼった。
一八一四年・・・・・・・・二二億ポンド=四四〇億マルク
一八六五年・・・・・・・・六一億ポンド=一二二〇億マルク
一八七五年・・・・・・・・八五億ポンド=一七〇〇億マルク
恐慌時には生産手段と生産物との破壊がどんなに大きいかということについていえば、一八七八年二月二一日、ベルリンでの第二回ドイツ工業家大会で、最近〔一八七三―七八年〕の恐慌のさいのドイツの鉄鋼業だけの損失総額は四億五五〇万マルクと見積もられた。
生産手段が社会によって把握されるとともに、商品生産は廃止され、したがってまた生産者にたいする生産物の支配も廃止される。社会的生産の内部の無政府状態にかわって、計画的・意識的な組織が現われる。個体生存競争はなくなる。こうして、はじめて人間は、ある意味では、動物界から最終的に分離し、動物的な生存条件から真に人間的な生存条件にはいりこむ。人間をとりまく生活諸条件の全範囲は、いままで人間を支配してきたが、いまや人間の支配と制御のもとにはいる。人間は、自分自身の社会化の主人となるから、またそうなることによって、はじめて自然の意識的な真実の主人となる。これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則は、人間を支配する外的な自然法則として人間に対立してきたが、いまや、人間によって十分な専門知識をもって応用され、したがって人間によって支配されるようになる。人間自身の社会化は、これまでは、自然と歴史とによって無理に押しつけられたものとして人間に対立してきたが、いまや、人間の自由な行為となる。これまで歴史を支配してきた客観的な外的な諸力は、人間自身の制御に服する。このときからはじめて、人間は十分な意識をもって自分の歴史を自分でつくるようになる。このときからはじめて、人間によってはたらかされる社会的な諸原因は、主として、またますます大きくなる度合いで、人間が欲するとおりの結果を生むであろう。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である。
おわりに、今まで述べてきた発展過程を簡単にまとめてみよう。
一 中世社会――小規模な単独生産。生産手段は、個人的使用にあわせてつくられており、したがって、原始的で、不細工で、ちっぽけで、効果もとるにたりない。生産は、生産者自身の消費であろうと彼の封建領主の消費であろうととにかく直接的消費を目的とする。この消費をこえる生産の余剰が生じた場合にかぎり、この余剰は売りに出され、交換されるものとなる。したがって、商品生産はようやく発生しはじめたばかりである。だが、すでにこのときに商品生産はそれ自身のうちに、社会的生産の無政府状態を萌芽としてふくんでいる。
二 資本主義的革命――まず単純な協業とマニュファクチュアとによっておこなわれる工業の改造。これまで分散していた生産手段の大きな作業場での集積、したがってまた個々人の生産手段から社会的生産手段への転化――この転化は、全体としての交換形態には影響しない。古くからの取得形態はそのまま効力をもっている。資本家が現われる。生産手段の所有者としての資格で、彼は生産物をも自分のものとし、それを商品にする。生産は社会的な行為になっているが、交換も、また取得も、あいかわらず個人的行為であり、個々人の行為である。社会的な生産物が個別的な資本家によって取得される。これは根本的な矛盾であり、そこから、今日の社会がそのなかで運動し、また大工業があかるみにさらけだすところの、いっさいの矛盾が生まれでる。
A.生産者の生産手段からの分離。労働者は終身賃労働を宣告される。プロレタリアートとブルジョアジーとの対立。
B.商品生産を支配する法則がますます顕著に現われ、その作用がますます強められる。無拘束な競争戦。個々の工場内の社会的組織と総生産における社会的無政府状態との矛盾。
C.一方では、競争のために機械を改良することがそれぞれの工場主にとっての強制命令となるが、これは、たえず増大する労働者の解雇と同じ意味をもつ。すなわち産業予備軍。他方では、無制限な生産拡張。これもまたそれぞれの工場主にとって競争の強制法則になる。この両方面からくる生産力の前代未聞の発達、需要にたいする供給の超過、過剰生産、市場の過充、一〇年ごとの恐慌、悪循環。すなわち、一方では生産手段と生産物との過剰――他方では仕事も生活手段もない労働者の過剰。だが、生産と社会的福祉とのこれら二つの槓杆は協力することができない。なぜなら、生産の資本主義的な形態は、生産力や生産物があらかじめ資本に転化していなければ、生産力が活動することも生産物が流通することもゆるさないからである。ところが、この資本への転化をさまたげるものは、まさに生産力と生産物との過剰なのである。この矛盾は高まって、生産様式が交換形態に反逆するという背理にまで発展する。ブルジョアジーはそれ自身の社会的生産力をもはやこれ以上管理する能力がないことを認めざるをえなくなっている。
D.資本家たち自身が生産力の社会的な性格を部分的に承認することをよぎなくされる。大規模な生産期間および交通期間は、最初は株式会社によって、のちにはトラストによって、さらに次には国家によって取得される。ブルジョアジーはよけいな階級であることが実証される。ブルジョアジーのすべての社会的機能は、いまでは有給の使用人によって果たされる。
三 プロレタリア革命――諸矛盾の解決。プロレタリアートは公的権力を掌握し、この権力によって、ブルジョアジーの手からすべりおちつつある社会的生産手段を公共の財産に転化する。この行為によってプロレタリアートは、生産手段を、資本としてのこれまでの性質から解放し、生産手段の社会的性格に、自分を貫く完全な自由をあたえる。これからは、あらかじめ決定された計画による社会的な生産が可能になる。生産の発展によって、いろいろな社会階級がこれ以上存続することは時代錯誤になる。社会的生産の無政府状態が消滅するにつれて、国家の政治的権威もまたねむりこむ。人間は、ついに彼らの独自な社会化の仕方の主人になり、したがって同時に自然の主人に、自分たち自身の主人になる。――すなわち自由になる。
この世界解放の事業をなしとげることは、近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的諸条件と、それとともにその本性そのものを究明し、こうして、行動の使命をおびた今日の被抑圧階級に、それ自身の行動の諸条件と本性とを自覚させることは、プロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。