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マルクス「資本論」

 

初歩的な入門

 

 

 

 

    目次

 

はじめに

 

1.資本主義の仕組み

 

2.資本主義の根本的な問題点。持続不可能性について

 

3.資本主義を超えて ー 未来社会の展望

 

参考文献

はじめに

 

マルクスの思想について、不破哲三さんの「マルクスと友達になろう」というパンフレットのうちの経済学の部分の要約としてまとめ始めました。ただし必要と思った箇所は、私が説明文を付け加えています。

 

マルクスは、自身の経済学を確立するにあたり、まず先人の研究を学びました。アダム・スミスやリカードなどです。でもこれらの人たちは資本主義社会が永続するものと考えていました。マルクスはその資本主義社会を分析し、はっきりと批判しました。

 

資本論の第一巻は1867年に出版されました。マルクスの死後、友人のエンゲルスがマルクスの残した草稿から第二巻と第三巻を出版しました。第一巻の出版からは150年以上もたちますが、資本主義社会は今でも続いています。資本主義社会を分析し、さらにそれを超える未来を展望する上では、今でも資本論か教えられることは多いです。

 

ソ連・東欧圏が崩壊してもうマルクスの思想は無効になった?そんなことはありません。まずそれらの国が、マルクスが思い描いた社会と同じだったか別物だったか、という問題があります。さらに資本主義の方でも、新自由主義の台頭によって、格差社会と環境破壊という大きな問題を生みだしました。今、マルクスに帰って、資本主義の問題点について考えてみましょう。

 

以下では、主として資本論の第一巻の内容について記述します。

 

 

 

1.資本主義の仕組み

 

富 = 商品ーー+ーー使用価値

        |

        +ーー価値・・・・・労働時間

 

資本論の冒頭は、次の言葉で始まります。

「「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる」

(資本論 第1巻第1章第1節)

 

ここで「資本主義的生産様式」という言葉がついているのは重要です。資本主義以前は、富は必ずしも商品という形態をとっていなかったのです。誰でもが無料で自由に利用できる社会の共通的な富がありました。それが資本主義では富は商品となって、価格がついています。

 

商品は、そして後述するお金も、共同体が終わるところ(つまり別の共同体と接するところ)から生まれます。過去には、このような共同体はいろいろありましたが、今日でも残存しているのは家族だけです。家族の中は、お金にも商品にも媒介されていません。例えば家庭内で食事をしてもお金を払う人はいないでしょう。一方飲食店で食事したらお金を払います。飲食店は家族ではないからです。子供に小遣いとしてお金を渡しても、それが家族内で使われることは想定されていません。それは外で使うものです。

 

商品には、使用価値と価値(交換価値ということもある)があります。使用価値としては、その商品を使用して得られる価値、食料なら空腹を満たす、服なら寒さをしのいだりおしゃれをしたりするなどです。価値は商品同士を交換するときの比率で表現されます。これは価格であらわされます。カップ麺1個とボールペン1本がともに100円なら、これは同じ価値を持ちます。

 

以下、マルクスは、使用価値としての使用価値は、経済学の対象外として、これ以上の話はせず、もっぱら価値の方の話を進めます。

2つの商品の価値が同じとはどういうことだろうか。これは両者に等しい労働が含まれているということです。これは労働価値説と言って、マルクス以前からあった考え方です。

例えば、丸1日かかって、ある人が机1個を作り、別の人が椅子2個を作ったとします。これらを作るためには原材料や生産用具が必要ですが、ここでは簡単にするためにそれを考慮しないこととします。では机と椅子を交換するときはどうなるか。机1個と椅子2個を交換することにすれば、これはどちらも丸1日かかって作ったものだから、公平な交換と言えますね。

 

実際には商品の価格は、その時の需要や供給の変動によって変動します。例えば今回のコロナ禍ではマスクの値段が非常に高くなったことがありました。だがこういう一時的な変動をならして、平均の価格で見たら、同じ時間の労働によって作られたものは同じ価値(価格)を持つのです。ただし現実には、人によって、同じものを作る時間に差はあります。ここでは、社会的に平均的な労働時間で作られるものは同じ価値を持つと考えます。

 

労働とは、マルクスにおいては、自然と人間の物質代謝としても捉えられています。これは今日問題になっている環境問題を考える際に重要になります。

循環的な物質代謝の過程であることが、持続可能であるために必要です。自然を一方的に破壊して修復不可能にしてしまうような社会は持続可能ではありません。

 

商品同士の物々交換では一つの困難があります。カップ麺とボールペンを物々交換する場合には、カップ麺を持っていてボールペンが欲しい人と、ボールペンを持っていてカップ麺を欲しい人が出会わないといけませんが、これはそんなにあることではありません。そこでどんな商品とも交換できるものが生み出されました。それが貨幣(いわゆるお金)で、特に金が使われるようになりました。

 

注:今日では銀行預金が貨幣として通用し、収入は銀行振込で、支出は銀行からの引き落としにすれば、紙幣も硬貨も一切使わなくても生活できます。また銀行預金が生まれる仕組みは、信用創造と言って、銀行が単に通帳に記載することにより貸し出しを行うだけで済む(万年筆マネーという)ように なっていますが、これは貨幣の歴史からいうと近年のことなので省略します。

 

資本主義以前    資本主義

WーGーW    GーWーG´    W:商品  G:お金

 

商品を作って、それを売ってお金を得る、そしてそれでまた商品を買う。これをマルクスはWーGーWという記号で表しました。Wはドイツ語のWareで商品という意味、GはGeldでお金という意味です。

やがて資本主義社会になると、次のような発想を持つ人物が現れます。GーWーG´。お金(G)を基に商品(W)を作り、それを売ってはじめよりもたくさんのお金(G´)を稼ぐのです。そしてさらにそれで商品を作りますから、これは無限に続き、そしてお金はどんどん増えていきます。このように価値増殖するお金、これを資本と呼びます。

 

お金を持つ人が資本家になるためには、二重の意味で自由な労働者を見つけねばなりません。封建社会のような身分制や土地には縛り付けられてはいず、自由な人格として自分の労働力を商品として売ることができるという意味と、売るべき商品を他に持っておらず自分の労働力を実現するための一切のものを所有していないという意味です。

 

 

商品の価値=不変資本(c)+可変資本(v)+ 剰余価値(m)

     (設備、原料) (労働力の価値)

 

次に、資本の構成について見ていきましょう。

資本は不変資本(C)と可変資本(V)があります。不変資本とは工場の生産設備や原材料費です。これらは生産の過程で価値は変わりません。可変資本とは労働力です。つまり賃金として労働者に払われる分です。

 

労働力というものも資本主義社会では商品であり、それはその生産のためにかかる価格であらわされます。労働力の価値なら労働者が生きていくための生活費、さらに労働者はいつかは年老いて死んでしまいますからその子供の養育費用も含みます。

 

ではこうして生産された商品はいくらで売られるでしょうか。商品をC+Vで売ったら、お金は増えません。先に書いた式ではGーWーGであり、これでは意味がありません。

だから資本家は、それより高い価格で売るのです。つまり商品の価値(価格)は、C+V+mであり、このmを剰余価値と呼びます。労働者はV+mの価値を生み出したのですが、労働力の価値、つまり賃金として支払われるのはVだけです。これをマルクスは搾取と呼びました。

 

では労働力の使用価値は?

実は労働力というものは、それを使用することでより大きい価値を生み出すという、特殊な使用価値を持つ商品なのです。

 

剰余価値は、つぎの2つの方法で増やすことができます。一つは労働時間の延長。賃金は変わらないのに生み出す剰余価値は増えます。これを絶対的剰余価値と呼びます。いったん労働者が労働力を資本家に売ったら、それをどう使おうが資本家の自由というわけです。

次に必要労働時間の減少。例えば機械化や自動化などにより、今までより少ない時間で同じ価値を生み出せたとします。その場合は労働者の賃金や人数が減らされたりして可変資本(V)が減りますから、同じ価格で売ったら資本家のもうけは増えます。これを相対的剰余価値と言います。

 

 

搾取の本質について、以下のような特徴があります。

 

第一に、搾取の本質が見えなくなること。

資本主義社会では、労働者は「労働」を資本家に売り、対価として賃金を支払います。これは一見等価交換のように見えます。でもここでは、労働者は「労働」ではなく「労働力」を売ったのであり、資本家はそれを自由に使えるところに搾取の本質があります(絶対的剰余価値及び相対的剰余価値の説明を参照ください。)。

 

第二に、剰余価値あるいは利潤を追及する資本主義の搾取欲には限りがありません。G-WーG´・・・という資本の動きは際限なく続きます。利潤第一主義が本質で、ここで満足するという限度がありません。

 

第三に、生産のための生産を旗印に、競争で生産力を発展させて、来るべき新しい社会の物質的基礎を準備します。これは次章以降で説明します。

 

第四に、資本主義的搾取の中らから次の社会の生み手が現れること。

資本主義社会の搾取の現場から、労働者階級という次の社会の担い手が現れます。これは過去の搾取社会と大きく異なる点です。

 

 

2.資本主義の根本的な問題点。持続不可能性について。

 

「“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国家のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない。」 (資本論第1部第8章)

 

“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”という言葉は、フランス大革命(1789年)以前のブルボン王朝時代の、ポンパドゥール夫人の言葉と伝えられています。贅沢三昧を尽くす夫人に対し、周りの人が「このままではとても財政が持ちません」、と進言したところ、「大洪水が来るなら来てもいいけど、私が死んだ後にしてよ。」と言い返したのですね。大洪水とは言うまでもなく旧約聖書に出てくる大洪水からとったものです。旧約聖書では、方舟に乗ったノアたちだけが洪水の災難を免れて助かったのですね。

 

資本主義は市場原理に基づきます。個々の資本家の人格や願望に関係なく、資本家に生きるために競争に勝ち抜くことを強います。ここで理想論を言っていたら競争に負けてしまいます。だから資本家はそれを望んだわけでなくても、労働者の健康や寿命に配慮せず安上がりで商品を作ることを強いられます。当然これでは労働者は持ちません。このような社会は長持ちするわけがなく、持続可能ではありません。

 

これは今日よく話題になる環境問題で顕著です。日本でも1970年ごろに公害問題がありました。環境に配慮せず、有害物質を排出し、大気汚染や水質汚染を続ける企業の方が市場原理ではより安上がりの商品を提供することができ、競争に勝つのです。

「今だけよければいい」という資本の本質が現れます。

 

これを防ぐにはどうしたらいいか?

ここでマルクスは、「社会による強制」と言っています。労働者の健康については、マルクスの生きていた時代にも、労働者たちの運動の成果として、10時間労働法が成立しました。このように、資本家は自発的には改善を行わない。労働者たちの運動で法律として制定し、資本家に強制することにより初めて可能になるのです。マルクスはこれを、「社会的バリケード」と言いました。

その後、国際労働者機関(ILO)が設立されました。また戦前のフランスの人民戦線政府時代には、有給休暇の制度を勝ち取りました。

 

しかしそのなかでも、資本の搾取は様々な手立てで攻めてきて、今日の統計では、格差は拡大しています。これは「21世紀の資本」の著者のトマ・ピケティが示した通りです。ただしピケティの議論には、その格差の根源については突き止められないままでした。ピケティは、r(資本収益率)>g(経済成長率)という経験則を導きこれが格差拡大の原因としましたが、その原因の究明およびそれを超える社会をどう構築するという議論は不十分です。

 

日本はこの点で、社会的バリケードを築くという点で、世界の主な資本主義国よりも遅れています。これは戦前において日本では民主的運動が弾圧されたということに始まります。

戦後、日本国憲法が制定され、改善は見られましたが、未だに多くのヨーロッパの国々よりも遅れています。

 

 

今日、格差の問題以外で、大きな問題となっているのは、原子力発電と地球温暖化です。ここにも資本主義の本質がよく現れています。原発の大事故の確率は低いから考慮しない、また強烈な放射線を出す使用済み核燃料の処分方法も決まっていないのに原子力発電を始める。地球温暖化による被害は将来のことだから今は考えない ー  まさに、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」です。

使用済み核燃料の処分については、フィンランドではオンカロと呼ばれる地下で10万年保管するそうですね。でも地震国の日本では、10万年の間に大地震が発生しないといえる場所などどこにもありません。

「原発はコストが安い」という宣伝がなされます。しかしこれは、事故の影響を過小評価し、使用済み核燃料の処分費用を考えない議論です。

原発事故は、いったん発生したら、その空間的範囲・時間的範囲が非常に大きなものです。ほかの技術ではありえないことです。これは私たちが福島原発の事故で経験したことです。

 

原発そのものも、根本的な欠陥を持っています。いったん電源喪失などの異常事態が発生したら自動的に安全方向になるのが安全な技術です。でも原発は事故が発生して核分裂反応を止めたとしても、核燃料は崩壊熱を出し続けます。その後も核燃料を冷却し続けなければなりません。電源喪失により冷却水が止まったら、核燃料の炉心溶融(メルトダウン)に至ります。溶け落ちた核燃料(コンクリートなどと混ざってデブリと言われます)は事故から10年たった今でも地下水を汚染続けています。そしてその処理(政府は海に廃棄しようとしています)をめぐって、いまでも決着がつきません。「止まっても止まらない」、ここに本質的な危険があります。

もともと現在の原発の主流をなす軽水炉は、原子力潜水艦のために開発されたものですから安全性の考慮が十分に行われていなかったのです

 

また現在の社会は、廃棄物を増やすと同時に、自然の資源を浪費する社会であることも考えないといけません。私たちの住む地球は有限です。無限の資源があるわけではなく、また廃棄物を無限に収容できるわけでもありません。

 

石炭・石油などの化石燃料を燃焼させ、それを産業に利用することは、産業革命以来顕著になったことです。この間に、大気中の二酸化炭素濃度は280ppmから400ppmにまで増えました(ppmとは百万分の一です)。二酸化炭素は太陽から受けるエネルギーを保存する温室効果を持つ気体であり、この濃度が上昇すると気温も上昇します。この間に気温は0.85℃上昇したといわれています(IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第5次報告書より。)

 

さらに、化石燃料は、数億年前から形成され始めたものですが、その量には限りがあります。このまま消費を続けていては、いつかはなくなってしまうのです。これに依存する経済は持続可能ではありません。

産業革命は18世紀中頃からヨーロッパで始まったものですが、それはやがて全世界へと波及していきますから、世界全体でみると化石燃料の消費の速度は加速しています。

 

数億年前、化石燃料ができ始めたころは、地球は今よりも二酸化炭素濃度はずっと高く、気温も高かったのです。陸上はとても動物が住める環境ではありませんでした。生命はまず海で発生したのですが、やがて植物が陸上に上がり、光合成により二酸化炭素を吸収し酸素を放出したので、地上はやっと動物の住める環境になりました。そして動物も陸上に上がってきました。

二酸化炭素は植物の中に封じ込められました。それはやがて石炭になったのです。

(石油の起源については諸説あるので省略します。)

これを全部燃やせばどうなるか?地球は数億年前の環境に戻ります。そこではとても動物は生きられません。

さらに、森林の大規模の伐採により、いよいよ環境は破壊されていっています。

注:今日では植物の残骸を分解し二酸化炭素を放出する微生物が発生したので、もう二酸化炭素が石炭の形で地中に封じ込められることはありません。

 

解決には、市場原理に任せてはだめで、やはり「社会による強制」が必要となります。当然ながら、その社会は、民主的に運営されないといけません。確かにパリ協定により、2100年において産業革命時からの気温上昇を1.5℃に抑えるという目標は合意されていますが、利潤第一の市場原理が主の資本主義ではこれを達成することは難しいでしょう。

 

化石燃料より持続可能なエネルギーは何か?それは自然エネルギーで、太陽光・風力・水力などです。これなら環境に悪影響を与えることもなく、資源が枯渇することはありません。

 

注:太陽は約50億年後には赤色巨星となり、地球を飲み込むまでに膨張するともいわれていますが、これは遥かな未来の話です。

 

 

3.資本主義を超えて ー 未来社会の展望

 

「資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した、この生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」 (『資本論』第1巻,第24章,7節)

 

資本主義社会の特徴は、生産手段(工場の建屋や機械設備など)を資本家が専有します。労働者はそれらを所有せず、持っているのは自らの労働する能力、労働力だけです。そして生きるためにそれを資本家に売ります。資本家はそれを自由に使用します。

このように社会が2つの階級に分かれ、支配階級は被支配階級に命令し働かせ、しかも利潤第一主義の経営を行い、得られた利潤を占有する。ここに大きな問題があります。

 

人間の労働を、人間と社会のために取り戻すこと、それを実現するための方策は、「生産手段の社会化」です。すなわち生産手段は資本家の専有物である現在の状態から、働くみんなの共有財産にすることです。

ソ連などでは、国有化が行われたわけですが、これは必ずしも唯一の解決方法ではありません。生産手段の社会的所有には、多様な形態がありえます。一部の官僚が実権を握り、労働者大衆に命令する、ソ連のような社会は社会主義・共産主義の名に値せず、そのような誤りは断固として退ける必要があります。

 

労働者、生産者が自分たちの意思で人間と社会が必要なものの生産にあたり、その生産過程を自分たちの共同の意思で管理していく、これが新しい社会の姿なのです。

 

マルクスは、資本論の中で、次のような資本主義批判を行っています。

「共産主義社会では、生産の諸結果をあらかじめ計算したうえで、生産活動に取り組む。これに反して、資本主義社会では、社会的理性はいつも「祭りが終わって」から働く。」 (資本論第2部第2​第16章

 

資本主義は一部の富を占有する人たちの意思によって利潤第一で突き進み、「生産のための生産」の軌道をひたすら突き進み、取り返しがつかないような破局的な結果が出た後(つまり祭りの後)でその問題に気づきます。それにたいし、未来社会(共産主義社会)では生産当事者たちが共同して最初から生産の全過程を把握し、その結果を計算に入れて、生産を共同の管理の下においているから、そういう破局は避けられるだろう、ということです。

 

これはもともと消費の限界を超えて生産する資本主義への批判だったのですが、今日の原発問題や地球温暖化問題では、一層よくあてはまる言葉になっています。

 

社会の生産力が増大すれば、本来は労働者の労働時間は短縮するはずです。ところが必ずしもそうとは言えません。一応は8時間労働制になったとはいえ、過労死に至るまでの長時間労働をしている人は今日の日本でも存在します。

これはまず、社会が階級に分かれていて、生産性向上の成果は支配階級に独占されてしまうということがあります。

さらに、今日の労働が、真に人間にとって必要なものかという問題もあります。モノの浪費があまりに多すぎないか。また広告や宣伝にかかわる労働は、人間にとって真に必要な労働と言えるのだろうか。これに今日の肥大化した金融システムにかかわる労働もあります。

これらの労働は、資本の利潤を増やすことには貢献していますが、真に人間にとって必要なものかを考え直す時期に来ているのではないでしょうか。

 

社会の全構成員が生産手段を共同で管理運営し生産を計画し、平等に労働する社会になれば、今日の労働の中で不要になるものも多いと思われます。

これにより、労働時間の抜本多岐な短縮を図り、自由な時間を利用して人間性の全面的な発展を図る、そういう未来社会を展望しようではありませんか。

それは第一章に書いた、今日では共同体は家族しか残っていないが、より大きな単位の共同体を復権し、人々が家族を超えて助け合える社会を再建することでもあります。

いうまでもなく今日の家族は少子化や子の進学・就職での親元離れにより、細っていくばかりですから、共同体としての意義はますます失われています。

 

「階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる。」 (マルクス・エンゲルス「共産党宣言」)

 

参考文献

 

マルクス 「資本論」 新日本出版社 全12冊

  最近出版された新訳です。

マルクス経済学の解説書・入門書

マルクス 「賃金・価格・利潤」  岩波文庫など

  マルクス自身によるマルクス経済学の簡潔な説明です。

  これを解説したものとして、不破哲三「古典教室」が

  あります。書籍・DVDとして販売されていますが、

  ネットで動画としても見られます。

レーニン 「カール・マルクス」 岩波文庫など

  レーニンによるマルクス主義全般の簡潔な解説

不破哲三 「マルクスと友達になろう」

  この本は一般の書店やAmazonで入手できないので、

  共産党の地区委員会経由で申し込み必要です。

池上彰  「高校生からわかる資本論」

的場昭弘 「超訳 資本論」 全3冊

斎藤幸平 「100分de名著 資本論」Eテレ番組のテキスト

資本論と関係する書籍

白井聡  「武器としての資本論」

斎藤幸平 「人新世の資本論」

ハーヴェイ「新自由主義」

          

 

以下はぼうごなつこ氏による漫画を張り付けておきます。

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